小氷期
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小氷期(しょうひょうき、英: Little Ice Age, LIA)とは、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のこと。小氷河時代 ともいう。この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。当初、小氷期は全球的な現象だったと考えられていたが、現在はその規模に疑問の声が投げかけられている。例えば、過去1,000年間の北半球の気温の推定値は、明白な寒冷期を示してはいない。IPCC (気候変動に関する政府間パネル)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」と記述している。
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[編集] 北半球
小氷期の間、世界の多くの場所で厳冬がもたらされたが、最も詳細な記録が残っているのはヨーロッパと北アメリカである。17世紀半ば、スイス・アルプスの氷河は徐々にその版図を低地へと広げ、谷筋に広がる農場を飲み込み、村全体を押し潰していった。氷河が河川を塞き止め、決壊による洪水に襲われた村も多い。テムズ川やオランダの運河・河川では、一冬の間完全に凍結する光景が頻繁に見られ、人々はスケートや氷上縁日(フロスト・フェアー)に興じている。1780年の冬にはニューヨーク湾が凍結し、マンハッタンからスタッテン島へ歩いて渡ることが可能であった。アイスランドでは、海氷が何マイルにもわたって島を取り囲んで長期間に渡って港湾を封鎖し、漁業や交易に打撃を与えた。
この厳冬の到来は、大なり小なり人々の生活に影響を与えている。飢饉が頻繁に発生するようになり (1315年には150万人もの餓死者を記録)、疾病による死者も増加した。アイスランドの人口は半分に減少し、グリーンランドのバイキング植民地は全滅の憂き目を見た。小氷期の影響は、この時代の芸術にも見ることができる。例えば、フランドルの画家ピーター・ブリューゲル (1564年 - 1638年)は、往時の村落を多岐に描いているが、その多くは雪に覆われた風景を呈している。
[編集] 原因
科学者は、海洋/大気/陸地システムの研究を通して、小氷期の原因を2つ同定している。それは太陽活動の衰弱と火山活動の活発化である。研究は、気候システムの内部不安定性や人類の活動による影響など、比較的不確定性の高い作用を基に進められており、黒死病が蔓延した時期におけるヨーロッパの人口減少とその結果生じた農業生産の低下は、小氷期を長引かせたと推測する向きもある。
[編集] 太陽活動
小氷期の中頃の1645年から1715年にかけては、太陽黒点が示す太陽活動は極端に低下し、太陽黒点が全く観察されない年も複数年あった。太陽黒点活動が低下したこの期間は、マウンダー極小期として知られている。太陽黒点活動の低下と気温の寒冷化を結びつける明確な証拠は提示されていないが、小氷期の中でも最も寒さの厳しかった時期とマウンダー極小期が一致する事実は、因果関係の存在を暗示している。この期間における太陽活動の低下を示す他の指標としては、炭素14とベリリウム10の存在比が挙げられる。
[編集] 火山活動
小氷期の全体にわたって、世界各地で広範な火山活動が記録されている。火山が噴火した時に、その火山灰が大気上層に達し、地球全体を覆うように広がることがある。この灰のベールが日射をある程度遮り、噴火後2年にわたって、全世界の気温を引き下げる。さらに、火山ガスの成分である SO2 が噴火の際に大量に放出されると、このガスが成層圏に達したときに硫酸の粒子に変化し、太陽光線を反射して地表に届く日射量をさらに縮小させる。1815年に起きたインドネシアのタンボラ火山の噴火は、大気中に大量の火山灰をばら撒き、翌年の1816年は「夏のない年」として記録されている。このときニューイングランドと北ヨーロッパでは、6月と7月に降霜と降雪が報告されている。
[編集] 小氷期の終わり
1850年代が始まると、世界の気候は温暖化に転じており、小氷期はこの時点で終了したと述べることができるだろう。何人かの科学者は、地球の気候は未だ小氷期からの回復の途上であり、この状況が人間のもたらした気候変動に関連する諸問題に寄与していると考えている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『歴史を変えた気候大変動』“The Little Ice Age”:ブライアン・フェイガン (Brian Fagan), 河出書房新社 ISBN 4-309-25154-4
[編集] 外部リンク
- 英語版には優れた資料 (英語) へのリンクが数多く示されているので参照されたい。