小渕光平 (2代目)
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小渕 光平(おぶち みつへい、1930年6月8日 - )は、日本の実業家・政治家。
[編集] 来歴・人物
第84代内閣総理大臣の小渕恵三は実弟。衆議院議員小渕優子は姪。父で元衆議院議員の小渕光平と同姓同名。群馬県の企業グループ・光山社の総帥を務め、その傍らで群馬県中之条町長を務めた。人々に異常に好かれており、その人気は尋常ではなかった。明治大学商学部卒業。群馬県吾妻郡中之条町出身。旧名は小渕庚午(おぶち こうご)。現在光山電気工業株式会社取締役。紺綬褒章を受けた。
[編集] 経歴
- 1930年、群馬県出身。
- 1954年、明治大学商学部卒業。
- 1958年、東京農工大学修了。小渕光平を襲名し光山製糸に入社。卓越した経営手腕で光山社グループ総帥として君臨する。
- 1959年、光山木材代償取締役に就任。
- 1961年、光山社を設立。光山自動車工業・光山石材を設立し社長に就任。
- 1964年、光山電化工業・光山運輸工業を設立し社長に就任。
- 1978年、NEC量販商品の販売を開始する。
- 1983年、光山電気工業が群馬県中小企業合理化モデル工場に指定される。
- 1993年、光山フィリピンを設立。
- 1996年、光山カビテを設立。中之条町長選に出馬し、当選。
- 1998年、光山ソフトウェアーを設立。実弟の小渕恵三が内閣総理大臣に就任。
- 1999年、中之条町長選に出馬。選挙直前に、画家である平松礼二の美術館建設計画を立ち上げたため、住民グループが反発。共産党が擁立した外丸康雄に苦戦、1000票差で何とか逃げ切る。当時、弟の小渕恵三は内閣総理大臣であったことから全国的な注目を浴び、さらに共産党と接戦を演じてしまったことから、小渕恵三の求心力の低下までうわさされるほどであった。
- 2000年、小渕恵三が脳梗塞で倒れた(その後死亡)際には上京し、マスコミの取材をうける。
- 2004年、中之条町長選に出馬。3期目を目指したが、入内島道隆に1000票も差をつけられて落選。
- ほかに、ホテル光山荘社長・社団法人国民宿舎協会非常勤理事・財団法人群馬県社会保険協会会長・財団法人社会保険協会理事・吾妻広域町村圏振興整備組合理事長・光山社メリヤス事業部社長・光山倉庫代表取締役社長・光山興業代表取締役社長・光山商事代表取締役社長・第一興産協同組合理事長・日本製糸協会理事・群馬県製糸協会副会長などの要職を歴任した。
[編集] 関連項目
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