岡田功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡田 功(おかだ いさお、旧名:和也(かずや)1931年6月20日 - )は、昭和中期から平成期(1950年代~1990年代前半)のプロ野球選手、プロ野球審判員。元セントラル・リーグ審判副部長。兵庫県尼崎市出身で、尼崎工業高校→大阪タイガース(1952年~1955年)→1956年からセ・リーグ審判。セ・リーグ袖番号は7(1988年初採用から1992年引退まで、7は2004年以降西本欣司が番号変更により継承)。阪神時代の背番号は48(1950-1951年)、46(1952-1953年)、27(1954-1955年)。
目次 |
[編集] 来歴・人物
選手時代は外野手だったが、1956年に審判員へ転身。以後着実と力を発揮し、プロ野球審判員現役37年、一軍実働36年、13年連続日本シリーズ出場、日本シリーズ通算94試合出場、日本シリーズ通算21回出場、レギュラーシーズン通算3899試合出場という、いずれも今後破られそうにない日本記録を樹立、昭和プロ野球界を代表する審判員となり、1992年シーズン終了後に引退。その後セ・リーグ審判総務に勤務していたが、総務廃止と同じに退職。現在マスターズリーグで審判を務め、マスターズリーグ委員会審判部ルール委員長(事実上の審判部長といえる)も務めている。野球教室などでの審判指導も精力的に行っている。
審判員としてのキャリアは申し分なく、長らくセ・リーグ審判員の顔であったが、下記にあるようなトラブルに巻き込まれたり、1986年に雑誌記者に話した雑談の内容が「巨人びいき」と取られ副部長を解任される(および翌年春まで謹慎処分)など、やや不幸な面も持ち合わせている(不運、というのは決して巨人よりの審判ではない、という面からもある)。また、インサイドプロテクター転向後の1988年夏にはファウルチップを受けて鎖骨を骨折し、その後のシーズンを棒に振る大怪我をしている。
1963年に32歳で日本シリーズ初出場を果たすなど、若い時期から高い評価を受けていた一方、引退前年の1991年にもオールスター・日本シリーズにダブル出場を果たし、また最多出場記録更新をこの年に成し遂げ、鉄人健在ぶりをみせていた。1960年代、1970年代、1980年代、1990年代の各年代に、オールスター・日本シリーズ両方で出場経験のあるのは彼一人であり、日本シリーズ第7戦で2回球審(1964年の日本シリーズと1980年の日本シリーズ)を務めたのも、セリーグでは彼一人である(パリーグでは二出川延明)。
通称「岡ちゃん」。中肉中背ではあるが、足のサイズが28cmもあり、また偏平足なため、「エンタープライズ(米国の巨大空母)」とも呼ばれていた。
パリーグでほぼ同時期に活躍した同姓の岡田豊(旧名:哲男)審判とは、高校の1年先輩である。
[編集] エピソード
[編集] 土井の足
岡田を名審判として世に知らしめたジャッジとして、1969年の日本シリーズ第4戦のジャッジがある(10月30日、後楽園球場にて)。
- 4回表、無死1,3塁で巨人の4番・長嶋茂雄は空振りをした。その際に1塁ランナーの王貞治がスタートを切っていた。阪急の捕手・岡村浩二は二塁に送球したが、それを見た3塁ランナー・土井正三は本塁に向かってスタートを切った。いわゆるディレードダブルスチールである。
- 岡村からのボールをカットした阪急の遊撃手・山口冨士雄はボールをホームに返球、土井は巨漢捕手・岡村に跳ね飛ばされたことからこのプレーはアウトと思われた(跳ね飛ばされた土井自身もアウトと思っていた)。しかし、この試合で球審を務めていた岡田は「セーフ」のジャッジを下した。
- この判定に阪急側は激怒。完璧に土井をブロックしていた岡村は激高し、岡田を殴打。日本シリーズ初の退場処分を受ける(なお、50年以上にわたる日本シリーズの歴史で、退場処分を受けているのはこの岡村一人である)。岡村に代わりマスクをかぶった岡田幸喜は、投手からの投球をわざと捕球せず、球審を投球の的にするという報復に出た。
- このプレーまでリードしていた阪急は結局巨人に逆転負けし、阪急監督の西本幸雄は「巨人の選手が見逃せば全てがボール、巨人の選手がホームに近づけば全てがセーフになるのか。あれがセ・リーグを代表する審判といえるか」とコメントしている。
- 試合後、記者に囲まれた岡田は「どうみてもアウトではないのか?」「モニターでは土井の足はホームに達していないぞ!」と詰め寄られた(岡田は後に「確かにモニターを見る限り、土井の足はホームに達していなかった」と述懐している)。
- 帰宅後、ミスジャッジをしてしまったかもしれないと考えた岡田は辞表を提出しようと考えていたところ、知り合いの新聞記者から電話が入り、「あなたのジャッジのとおりの写真が出た」と知らされた。そして、翌朝のスポーツ新聞1面に問題となったホームでのクロスプレーの写真が大きく引き伸ばされて掲載された。それには、土井が跳ね飛ばされる直前に彼の左足が岡村の両足の間をかいくぐり、しっかりと本塁を踏んでいる瞬間が見事に写し出されていたのである。これにより、問題のジャッジは正しかったことが証明され、周囲からの非難は一気に沈静化。逆に「鋭い部分を見ていた」との称賛の声も出た。ただ、西本幸雄は「写真ではセーフ。しかし誰もがアウトと言うのはアウトだからだ」と述べたという。
- このエピソードに関してアニメ「巨人の星」にてアニメ化されている。但し内容は多少異なる。
[編集] 岡田審判と暴力事件
1956年から1992年までの通算37年(総務の時代を含めると通算46年)にも及ぶ審判人生では数度暴力事件に巻き込まれている。
- 最初に巻き込まれたのは1957年8月21日に中日球場で行われた中日対国鉄戦である。この試合では国鉄の金田正一投手が史上4人目となる完全試合を達成したが、9回裏の判定トラブルが原因でファンが乱入・暴動という事態に至った。この試合で岡田審判は右翼外野線審を務めていたが、ファンが乱入した時に逃げ遅れたために標的となった。
- 次に巻き込まれたのは1969年10月30日に後楽園球場で行われた巨人対阪急の日本シリーズ第4戦であった。これについては上述の通りである。
- 最後に巻き込まれたのは1982年8月31日に行なわれた横浜スタジアムでの大洋対阪神戦である。この試合で三塁塁審を務めていた鷲谷亘審判が大洋の石橋貢内野手(後に外野手)の捕球を巡って抗議した島野育夫コーチに退場を宣告したところ同コーチに殴られた。そのため球審を務めていた岡田審判は鷲谷審判に暴力をふるった島野コーチを止めようとした。すると逆に島野コーチに襲われ、柴田猛コーチからも殴られることになった。岡田球審は全治2週間の大怪我を負うことになった。
[編集] 通算成績
- 出場41試合 21打数 1安打 1打点 打率.048