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王貞治 - Wikipedia

王貞治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王 貞治(おう さだはる1940年5月20日と5月10日 - )は生まれのプロ野球選手・プロ野球監督。左投左打でポジションは内野手(一塁手)。国民栄誉賞の受賞者第一号でもある。東京都墨田区で中国人である父と日本人の母の間に生まれたハーフである。現在も中華民国国籍を守っていることなどから、東アジア野球界の英雄であり、特に台湾野球人の間では憧れの的になっている(中国語拼音:Wáng Zhēnzhì)。

現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。読売ジャイアンツの主軸として積み上げた通算本塁打数868本はハンク・アーロンの755本をはるかに上回る記録で、その他数々の記録を保持する。ジャイアンツでは入団から監督を退くまで背番号1を背に戦い、1番はチームの永久欠番となっている。「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる古今無双の大打者である。

現在は福岡ソフトバンクホークス取締役副社長、ゼネラルマネージャー兼監督。ワールド・ベースボール・クラシック初代優勝監督でもある。愛車及び送迎車は共にレクサス・LS。タレントの王理恵は次女。

目次

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[編集] 来歴・人物

[編集] 出生

東京都墨田区で中華民国籍(浙江省出身)の父・仕福、日本人(富山県氷見市出身)の母・登美(旧姓:当住)の間に生まれる。実は、5月10日に二卵性双生児の弟として出生したのであるが、取り上げられても泣かないほどの未熟児であったため両親が出生届の提出を遅らせたことから、戸籍上は5月20日が出生日とされている(家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のために届けが遅れたという説もある)。なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は、1歳3ヶ月で死亡した。その後も、貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と、本人が述べている。

[編集] 少年時代

父・仕福は貞治を電気技師にさせたかったようだ。父の仕福は兄の鉄城を医師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。だが区立本所中時代に、のちに指導を受ける荒川博(当時毎日オリオンズで活躍していた)に野球の素質を見出され、荒川の母校早稲田実業高等部に進学することになる。高校受験での第一志望先である都立墨田川に落ちた結果であった。荒川との最初の出会いは、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかったグラウンドで王が出ていた少年野球の試合を眺めていたというものである。試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「君は左利きなんだから、左で打ってみなさい」とアドバイスし、王がすぐに実践したところツーベースを打った。王はそれからずっと左で打つようになった。左利きの王が右打ちだった理由は、兄が右打ちだったかららしい。

小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。

[編集] 早実時代

早稲田実時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場に貢献。2年生の時にはエースとなり、春の甲子園で3試合連続完封により決勝戦へ進出。決勝戦では4試合連続完封を逃したものの、完投勝利で関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。夏の甲子園では2回戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成(延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である)。ちなみに、当時の王はノーワインドアップ投法を用いていた。3年生の時には春の甲子園では30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放った。しかし、夏の甲子園には、東京都予選の決勝戦で敗れたため出場できなかった。なお、国体には、当時の国籍規定のため出場できなかった。

[編集] 当時の人物像

温厚そうな人柄だが、早稲田実業時代は、王貞治と言えば都内で一、二を争うケンカの猛者だった。同世代の映画監督山本晋也も、早実の王といえばケンカの強さで有名だったと証言している。この向こうっ気の強さは生来の物のようで、幼稚園の頃に自分よりはるかに大きな小学生相手に一歩も引かずに殴り合ったという逸話がある。本人も、ケンカでは負けた記憶がないと語るほどである。

[編集] 現役選手時代

1959年に契約金1500万円で読売ジャイアンツに入団。プロ入りの同期には板東英二・張本勲・足立光宏らがいる。球速が遅かったため当時の監督・水原茂に「おまえはピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向。プロ初出場試合では国鉄の金田正一と対戦し、全打席三振に終わるが、この初出場試合の結果は長嶋のそれと同じである。入団3年間の打撃成績は通算打率2割4分2厘、通算本塁打37本、通算打点149と期待に応えたとは言えないものだった(実際、その頃は「王は王でも三振王」などと野次られていた。ただし王がリーグ最多三振を記録した年はない)。そのため1961年には阪急のエース・米田哲也との交換トレードの話が水面下で進められたほどである(結果的に阪急が断ったため、このトレードは行われなかった)。

1962年にすくい上げる打法を矯正するため、荒川博打撃コーチの指導の下で『一本足打法』を習得。この打法はアメリカでは一本足で立つ姿から「フラミンゴ打法」と呼ばれる。この時の練習の過酷さ、練習量を表すエピソードとして「練習に使った部屋の畳が擦れて減り、ささくれ立った」という話がある。

また、特に有名なエピソードとして、天井から吊り下げた糸の先に付けた紙を、日本刀で切る、という練習があった。これは、技術として日本刀で紙を切るほど打撃を研ぎ澄ませる、という以上に、打席内での集中力を高めることで余計なことを考えないでいいように、という目的もあったようだ。この練習がどれほどのものだったかは、当時のチームメイトであった広岡達朗と藤田元司がこれを見学していたことを思い出しながら「あまりに緊迫感のある練習だったので、それまでは後輩の練習がどれほどのものか、と胡坐をかいてのんびり見学してやろう、と思っていたのに、いつの間にか見学していた人間全員が正座して観ていたよ」とコメントしている。とにかくこの打法改造がきっかけとなって驚異的な勢いで本塁打を量産し始め、同年から1974年の12年間本塁打王を独占、1964年にはシーズン本塁打55本の日本新記録(2006年現在ではタフィ・ローズ、アレックス・カブレラと並ぶタイ記録)、同年5月3日に開かれた阪神戦(後楽園球場)では1試合4打席連続ホームランを記録。当時の広島の監督である白石勝巳が、王の打球がフィールドの右半分に集中することを考慮に入れ野手の内6人をライト側に守らせる『王シフト』と呼ばれる守備体系を考え出したことで話題になった。

1971年の日本シリーズでは当時パ・リーグを代表する投手だった山田久志から逆転サヨナラ本塁打を放ち、チームの日本一に貢献。

1972年9月には公式戦7試合連続ホームランの記録を達成。これは1986年にランディ・バースに並ばれたものの、いまだに日本プロ野球記録である。

1977年9月3日、対ヤクルト戦で、アメリカメジャーリーグのハンク・アーロン選手が持っていたメジャーリーグにおける本塁打記録(755本)を破る756号を鈴木康二朗から放つ(ただし、当時の日米のレベル差と日本の球場の狭さ、圧縮バットの使用などを考慮する必要がある。後楽園球場は両翼の実測が85mほどであり、外野に向かって傾斜が下がっておりバッターにとっては非常に有利な球場として知られる)。これにより、同年国民栄誉賞第1号を授与された。1980年に現役引退。現役本塁打通算868本は未だ破られていない(ただし、ニグロリーグのジョシュ・ギブソンの通算本塁打数を962本とする説があり、断定できない)。また、通算OPS1位、13年連続を含む15回の本塁打王、三冠王2回などの記録も残している。ちなみに通算本塁打記録を球団がギネスブックに登録申請したが、当時の日本の野球場がメジャーに比べて狭いとの理由から認められなかった(これは野球の世界に「世界記録」という概念がない、という立場からであって、前述のジョシュ・ギブソンの記録などと並んで記載はされている)。

日本の本塁打記録では、通算2位である野村克也の657本に200本以上の大差をつけている。野村は王と同年代に南海で活躍した選手で、本拠地の大阪球場は両翼84m、中堅115.8m(昭和47年に両翼のみ91.4mに拡張された)と後楽園球場を下回るグラウンドであった。野村が投手をリードする捕手兼任、さらに昭和45年~52年は監督も兼ねる重責を担っていた事を差し引いても、王がいかに当時としては飛びぬけた打者であったかは容易に理解できよう。現在の日本のプロ野球で使用される球場は広島、神宮を除いてほとんどが両翼100m近い大きさであるが、ボールを打ったときの反発力が昭和30~40年代と今では大きく違うことも考えられるので、当時と今との単純比較はできない(後楽園での理想は相手チームも含めて王と長嶋以外打てない方が勝てるため、当時の巨人軍はボールの反発力を低くしたと思われる)。

木材に樹脂加工を施して反発力を高めた圧縮バットを愛用していた著名な選手の一人である。そのためか、圧縮バットの評価は「反発力を増した魔法のバット、木製金属バット」などと歪曲され良い事尽くめのように書かれているが多い。実際の圧縮バットは、集成剤と心材の成型による硬い扱いづらいバットである。アオダモ製の生きたバットは当時非常にバラツキがあり品質に問題があった(そのため長嶋茂雄に代表される1部の高年俸の選手は米ルイ・ビル社のバットを高額で輸入していたが、これはコストに問題があった)。王自身も加工が加えられたバットである圧縮バットの禁止は予感しており、昭和50年代の成績はアオダモのバットも併用して残したものといわれる。結局圧縮バットは下田武三コミッショナーの提言・配慮により、王の現役引退と同時に禁止になったが、例えば「サミー・ソーサのコルクバット事件」などを引き合いに出すのは状況を無視しており適切ではない。

バットで残した記録に隠れがちだが、一塁手としての守備も高く評価されていた。特にショートバウンドの処理、バント処理が抜群で、1972年から制定されたダイヤモンドグラブ賞に、1980年に現役引退するまで毎年選出されている。現役最後の1980年には一塁手の守備機会連続無失策記録を更新(991守備機会連続無失策)している。ちなみにハンク・アーロンの本塁打記録に並んだ1977年8月31日の大洋戦とアーロンの記録を超えた9月3日のヤクルト戦では、「外野のファンにお礼がしたいから」と言って、途中から右翼手として出場している。公式戦で王が外野手として出場したのはこの2試合だけである。

上手い打撃で相手側チーム選手が出塁すると「ナイスバッティング!」を声を掛け、相手側チームの打者であってもその技術を評価した。

王の打撃は1978年ごろから徐々に鈍り始め、1980年に「王貞治のバッティングができなくなった」と現役引退を表明。その年は打率は2割3分台(その年の規定打席到達者の中で最低の打率)とかなり悪かったものの本塁打は30本を記録しており、王自身の自身の打撃に対するプライド、またファンへの思いが窺える。引退セレモニーはシーズンオフのファン感謝デーの最後に行なわれ、ピッチャーマウンド上のマイクで挨拶があり、挨拶終了後に自ら左打席にバットを置きそのまま歩いて一塁ベース上にはファーストミットを置きに行き、同時に引退となる高田繁を呼び挨拶を行なうように呼びかけるという王の人の良さが最後にみられた名場面だった。この引退時のパフォーマンスは山口百恵のそれを取り入れた、といわれている。

引退試合後に堀内恒夫を投手として招いて正真正銘の最終打席を行った。が、堀内の渾身のストレートにより空振り三振に仕留められた。また入団時のポジションである投手に戻って堀内と勝負したが、こちらも堀内にレフトにホームランを浴びた。ちなみに王の最後の打席への堀内の投球は、1球目にドロップ(縦のカーブ)。2球目もドロップ。3球目にストレートであった。

[編集] 王選手の節目のホームラン記録の一覧表

号数 達成日 対戦カード 会場 投手
1 1959年4月26日 国鉄 後楽園 村田
4
ONアベック第1号
1959年6月25日 大阪 後楽園 小山
47
一本足第1号
1962年7月1日 大洋 川崎 稲川
50 1962年7月11日 中日 中日 権藤
100 1963年7月28日 広島 広島 大石清
150 1964年7月16日 広島 後楽園 池田英
200 1965年9月19日 大洋 後楽園 峰
250 1966年8月18日 大洋 川崎 新治
300 1967年8月31日 産経 後楽園 村田
350 1968年9月21日 中日 中日 小川健
400 1969年10月18日 中日 中日 外山博
450 1971年4月18日 広島 広島 外木場
500 1972年6月6日 広島 広島 西川
550 1973年6月21日 中日 中日 伊藤久
600 1974年5月30日 阪神 甲子園 谷村
650 1975年7月11日 阪神 後楽園 山本重
700 1976年7月23日 大洋 川崎 鵜沢
714
世界2位タイ
1976年10月10日 阪神 後楽園 古沢
715
世界2位単独
1976年10月11日 阪神 後楽園 山本和
750 1977年8月23日 広島 広島 池谷
755
世界タイ
1977年8月31日 大洋 後楽園 三浦道
756
世界新
1977年9月3日 ヤクルト 後楽園 鈴木
800 1978年8月30日 大洋 後楽園 大川
850 1980年6月12日 広島 後楽園 金田
868
現役最終
1980年10月12日 ヤクルト 後楽園 神部

[編集] 助監督・監督時代

1981年から3年間巨人助監督を務め、藤田元司監督、牧野茂ヘッドコーチとのトロイカ体制で1981年、1983年のリーグ優勝(1981年は日本一)に導く。1984年から監督に昇格。しかし、前年リーグ優勝したチームを受け継ぎながら3年間優勝から遠ざかり、監督としての資質に疑問を呈する声がファンや評論家から挙がる。

1985年に阪神のランディ・バースが巨人との最終2試合にシーズン55号ホームランに挑むという事態になり、巨人のバッテリーはほとんどの打席で敬遠した。そのためファンから大批判を浴びた。その後ローズやカブレラの新記録挑戦の際にも敬遠攻めであったため、そこまでして自分の記録を破られたくないのかという批判が起きる(だが実際に王本人はこの時バース、カブレラ、ローズに対する攻め方を何も言っておらず選手たちが勝手に行ったものとも言われている。一方、1985年に巨人に在籍したキース・カムストックはバースにストライクを投げると罰金を取るという指示がベンチから出ていたとR・ホワイディングとの共著に記している)。さらにオフにはこの年始まった「ニュースステーション」がファンなどを集めて巨人優勝の策を考える「ジャイアンツ・エイド」などという企画を行う(その実態は単なるバッシングである)。王はPL学園桑田真澄を強行指名するが、このとき同校清原和博を獲ると公言したかのような編集ビデオを流されてしまい、マスコミから根拠の無いバッシングを受ける。清原は王を尊敬しており、桑田と清原も無二の盟友であったが、3者の間には消えない因縁が残ることになる。

1986年にはリリーフ投手が揃って安定感を欠くのに対し鹿取義隆一人が鉄腕とも言うべきスタミナと安定感を発揮、ワンポイント角三男・セットアッパー鹿取義隆・抑えに新入団のルイス・サンチェという継投が確定する。チームは終盤まで首位を争うが、広島東洋カープを勝ち星で上回っていながら勝率で下回るという屈辱的なシーズンとなる。

この継投はマスコミによって「ワンパターン」「三段締め」などと固定的な論調で語られ、同じように固定した投手を「勝利の方程式」と高らかに宣言した第二期長嶋巨人や万事に余裕を持って望んでいる福岡時代の自分自身に比べると、東京時代でのマスコミとの付き合いは愚直であった。鹿取は5年合計300試合400イニングに登板しリリーフの核として起用された露出度ゆえ、「ピッチャー鹿取」という流行語が生まれている(「A課長がカトられる」などと言う比喩や、ギャグ漫画で王監督を模したキャラクターの口癖などに使われたほどである)。

監督就任4年目、主砲原辰徳を前年の故障で欠き、落合博満を中日ドラゴンズが獲得するなど、チームはかつて無い危機を迎えていた。しかし、その中日との開幕戦での西本聖の完封勝利で1987年のシーズンが幕を開ける。クロマティを4番に据え、ストッパーに回った鹿取と弱冠19歳のエース桑田真澄を軸に若手投手陣は躍動する。終ってみれば独走でのリーグ優勝であった。惜しくも西武ライオンズに2勝4敗で敗れ日本一はならなかったものの、打撃ベスト10に篠塚利夫、吉村禎章、中畑清、復帰した原とクロマティの5人が3割を記録した強力打線が軸であった。余談ではあるが、このとき西武日本一の胴上げ投手となったのが工藤公康、そしてウィニングボールを掴んだのは秋山幸二であった。後にこの二人が中心となって、王率いるダイエーホークス初のリーグ優勝、日本一に貢献することとなる。

翌1988年はクロマティ・吉村のケガによるリタイア、江川卓の引退からくる投手陣のきしみから1位に水を開けられ2位に終わり、フロントから責任を問われる形で辞任。それ以後、何度か巨人監督復帰の噂が流れるが、王本人は否定している。

ベンチでゲーム展開が思わしくないと、眉間に仁王のごとく皺を寄せ見つめる姿などを漫画家のいしいひさいちがやたらと騒がしい原辰徳などとともにカリカチュアライズして4コママンガを描き、未だ読者に人気を博しているが原型はこの頃である。

巨人退団後はNHK野球解説者を務めた。

1995年から福岡ダイエーホークスの監督に就任。当時のダイエーは前身の南海時代から続く長年の成績不振で、1996年5月9日の近鉄戦で敗れた後、日生球場から出てくるバスにファンの一部から「お前ら、プロか?」と言う罵声と共に生卵が投げつけられた。(生卵事件を参照)

その他1998年のスパイ疑惑などで監督批判が数多く報じられた。巨人監督を辞任する際にV逸の責任をフロントから問われた時とは違い、ファンの側から心無い仕打ちを受けるという、スター街道を進んできた王にとっては今まで味わった事のないほどの耐え難き屈辱を受け続けた時期が続いた。王はそれらに対し、ひたすら「俺は辞めない」「我々は勝つしかない。勝てばファンも拍手で迎えてくれる」と発言しながら耐え忍び続けた。一方でこの年はオリックスと同率ながら21年ぶりのAクラスとなる3位に入った。前身の南海時代から続いていたBクラスの連続年数はプロ野球記録であり、ホークスの低迷を象徴するものだった。久し振りのAクラス入りによって選手の勝利に対する意欲が高まり、翌年の優勝につながったため、非常に意義のある年だったとも王は後に語っている。

監督経験を重ねた力が実を結び、1999年に球団創設11年目にして初のリーグ優勝、さらに中日との日本シリーズも制し日本一に。翌2000年も優勝してV2を成し遂げ、2003年にも再び日本一に輝く(2度の日本一になった年の日本シリーズでの対戦チームの監督はいずれも星野仙一であった)。2000年の日本シリーズは長嶋茂雄監督との「ON監督対決」として注目された。

2002年のドラフトでゲイビデオ出演が発覚して横浜に指名回避された多田野数人を事実を知った上で獲得しようとした。球団社長・高塚猛もGOサインを出したがオーナー・中内正の強い反対にあって実現はしなかった。このことから王はゲイに対する偏見はないと思われる。

2004年6月7日には日本ハム戦で監督通算1000勝を達成。監督就任11年目となる2005年1月28日、ホークスのソフトバンクへの正式譲渡と同時に取締役副社長兼ゼネラルマネージャーに就任(監督もそのまま兼任)した。2006年度も続投が決定し、就任間もない時期からは考えられないほどの長期政権となっている。

なお、指揮を取るホークスは2003年から3年連続レギュラーシーズン1位であるが、パ・リーグにおけるプレーオフ制度導入となった2004年、2005年と2年連続でプレーオフセカンドステージで最終戦まで行きながらも2004年は西武に、2005年はロッテにリーグ優勝を譲っている。

2006年3月開催の「第1回 ワールド・ベースボール・クラシック世界大会」日本代表チーム監督に就任。3月21日の決勝戦でキューバを10-6で破り、日本を初代チャンピオン(世界一)へと導き、選手・監督として名実共に「世界の王」となった。WBC期間中のオープン戦の監督代行は、チーフ兼内野守備走塁コーチ・森脇浩司が務めた。

2006年7月5日の西武戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)後より、胃の上部に生じた癌の治療のためチームを離れ休養。監督代行はWBC開催時同様、森脇が務めた。術前診断は粘膜下層までの浸潤、1群リンパ節転移。7月18日、慶應義塾大学病院で腹腔鏡下に胃全摘・Roux en Y法再建と2群までのリンパ節郭清が行われた。8月2日に退院・記者会見。ファンを大切にする王らしく「みなさんの激励に支えられて生還できた」と喜びを語った。なお、術後の病理診断結果は公表されていない。

2006年9月29日、福岡ヤフードームに85日ぶりに公式の姿を現した。

2007年春の宮崎キャンプから監督業に復帰した。

※生卵事件 1996年5月9日日生球場最後のプロ野球の試合となった近鉄戦では最下位を走るホークスのファンから体制を非難する横断幕が掲げられるなど、外野スタンドは試合前から殺伐としていた。横断幕のほとんどが、王貞治監督や瀬戸山隆三球団代表を強烈に批判する内容であった。 試合は、初回秋山幸二の本塁打で先制したものの、先発の吉田豊彦があっさり逆転を許す。 9回表に吉永幸一郎の本塁打で1点差まで迫るが、2-3でバファローズの勝利。

その後「お前らプロか?」と言う罵声を皮切りに、ホークスナインの乗ったバスに次々と生卵がぶつけられる事件が勃発。この事に王は「俺はこんな仕打ちをされるために、博多に来たんじゃない!」と激怒した。この時、王は「我々が卵を投げ返すのは簡単だが、これをファンの意見と取るならば、勝つ事しかないんだよ」とコメントした(それから10年後の2006年5月9日、日生球場の跡地で「生卵事件を偲ぶ会」を当時の近鉄ファンとダイエーファンが行っている)。


[編集] 略歴

  • 身長・体重:176cm 69kg
  • 投打:左投左打
  • 出身地:東京都墨田区
  • 血液型:Oåž‹
  • 球歴・入団経緯:早実高 - 巨人(1959å¹´ - 1980年) - 巨人助監督・監督(1981å¹´ - 1988年) - 野球解説 - 福岡ダイエー・福岡ソフトバンク監督(1995å¹´ - ) 
  • プロ入り年度:1958å¹´
  • 英語表記:OH
  • 推定年俸:22500万(2006年)
  • 守備位置:一塁

[編集] エピソード

[編集] 野球人として

実は阪神タイガースに入団を打診され、仮契約でほぼ決まりかけていた。当時の新聞にも「優勝した甲子園のマウンドでまた投げられて光栄です」とコメントしている。が、当時の東京-大阪は移動に時間も掛かり、契約書を持参した阪神球団関係者が王の実家を訪れた前日に読売巨人軍と契約していた。また、これと逆の事が田宮謙次郎入団の時におこっている。

背番号1については、中国語で「王」を「ワン」と発音することから、英語のoneにかけてつけられたという説もあるが、背番号そのものは、南村侑広の引退によってたまたま1が空いていたため、それをつけることになったというのが実情である。

長嶋茂雄とはチームの主力・顔として14年間の長きにわたり3・4番を務めて『ON砲』などと呼ばれ、2人で数多くのアベックホームランを放った(初のONアベックホームランは1959年6月25日、天覧試合となった後楽園での阪神戦。通算で106本(連発は29本)のONアベックアーチを放つ。106本目は長嶋の引退試合で放ったもの)。長嶋引退後も選手・監督として、王の引退後は監督同士、時には親友として、長く交友を続けている。また「尊敬する野球選手は?」という質問をされた際には、ハンク・アーロン、川上哲治とともに、必ず長嶋の名前を入れる。

「乱闘が起きてもベンチでただ一人手を洗っていた」という逸話を残すほど争いを好まない王が、唯一乱闘の口火を切ったのは1968年の対阪神戦(甲子園球場)。阪神・ジーン・バッキーから危険球を投げつけられ、バットを持ってバッキーのもとに詰め寄った(ただし王自身はバッキーとは仲は良く、「おいおい」とたしなめる程度のつもりであったという)。その後、打撃コーチ・荒川博がバッキーと乱闘して退場となった。さらに交代した権藤正利の投球が王の頭を直撃。その後、同僚の長嶋が権藤のボールをレフトスタンドに叩き込み、事実上の報復を果たした話は有名。なお、この事件で荒川と乱闘を演じたバッキーは指を骨折。投手生命を絶たれる原因となった。上記のように温厚な王ではあるが、門限を守らず、平気な顔で長電話に興ずる同僚の堀内恒夫に対して一度だけ鉄拳を振るったことがあり、その時王は目に涙を浮かべていたと堀内は証言している。

足腰は非常に強く、一本足で立った状態で子供にぶら下がられてもびくともしなかった。しかし意外にも腕力は弱く、腕相撲は巨人の野手の中では一番弱かったばかりか、女性にも負けることもあったという。(ちなみに巨人で一番腕相撲が弱かったのは投手の高橋一三。宿舎などで同僚にコロコロ負けてしまう王はその後必ずといっていいほど高橋を捕まえて腕相撲に勝って機嫌を直していたと言う)

756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が送られる手はずとなっていたが、3日間ホームランが出なかったため製作していた花屋は45万円分のカーネーションを無駄にすることになった。どうやらボランティア製作だったようである。

この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場1塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す感動的な瞬間もあった。

また、日本テレビ放送網は当時ジャイアンツ主催試合を独占中継していたが、この756号のホームランは生放送できなかった。というのも、当時の中継は19:30からの放映で、記録を決めた19:10の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映し、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。

その756号を打たれたヤクルト・鈴木康二朗は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向し、永らく現役を続けた。

通算846号の本塁打を打ったバットは、歌手の八代亜紀にプレゼントしている。これはイベントで知り合った八代が、語呂あわせで"やしろ"となる846号を打ったバットを欲しがった為である。このお礼に、八代は王に直筆の肖像画をプレゼントしている。

プロ通算打率は.301。実働20年を越えて3割を記録したのは他に張本勲しかいない大記録であるが、本人はこの維持を気にかけていたらしい。引退会見では「王貞治のバッティングができなくなった」としか述べなかったが、後に「頭になかったといえば嘘になる」とそれが引退の一因であることを明かしている(後日、自身の引退の理由について「陰毛に白髪ができて、潮時だと思った」ともコメントしている)。尚、張本は王の引退理由についてサンデーモーニングで「投手からの牽制球が年とともに恐怖感が増してきたから」と語っていた。

現役時代、日本シリーズで活躍しながらMVPを1度も受賞できなかったが、これは王が現役時代から日産自動車とのコマーシャル出演契約を結んでいた事もあり、日本シリーズMVPの賞品の自動車(トヨタ自動車協賛)を受賞し、新聞やテレビにその画像・写真を露出してしまうと契約違反になる恐れがあったものと思われる。また1971年日本シリーズ第3戦、9回裏2アウト1・3塁の場面で阪急・山田久志から放ったサヨナラ3ランは自他ともに認める最高のホームランであったが、それでも日本シリーズMVPを手にすることは出来なかった。

現役時代より大スターであったにもかかわらず、非常にファンサービスに熱心であり、サインを断ったことは一度もないという。それゆえ現在もソフトバンクの選手にファンサービスを熱心に行なうよう指導しているという(まだ若手時代の小久保裕紀がマスコミのインタビューにふてぶてしく答えた後、翌日のスポーツ新聞の小久保の記事を読んで「ファンの事を考えてコメントをしろ!」と激怒した事もある)。ちなみに王本人は少年時代、巨人選手にサインを貰おうとするも、川上哲治などには見向きもされず、与那嶺要に貰えることができたそうで、その与那嶺の姿勢に王も倣っているという。ちなみに最近の王は、サインをする際に俺は今までサインを書きすぎてるから、ネットオークションに出したって1銭の価値も無いよと笑いながらサインをする(騙されるようなことでもないが、球場の売店などで市販されているサインボール等はもちろんプリントアウトや代筆である)。

ほとんど知られていないが、犠牲フライの日本シリーズ記録を保有している。

通算敬遠427の中にランナー無しでの敬遠が13回含まれる(さすがに満塁では無い)。初回ランナー無しでの敬遠もあり、理解の範疇を超えている。本人は「相手にそれだけ怖がられているんだろうと、むしろ誇りに似たものがあふれてきた」と語っている。イニング別では1回が一番多い。

通算四球も2390個で2位に1000個近くの差をつけてダントツの1位である。2390個もの四球数は、言い換えれば2390安打と同じ価値ともいえ、この通算四球数だけで名球会入りができてしまう選手は日本プロ野球界において王貞治しかいない。ちなみに通算四球数2位の野村克也は1475個。四球の数が影響して通算本塁打率10.7や通算OPS1.080も不滅の記録として残っている。

「空白の一日事件」に対して「江川の代わりに阪神に行く小林繁はトレードマネーとして1億でも2億でももらったらいい」と公言している。巨人に入団してきた江川卓に対して「キャンプで彼と同部屋になることは断固拒否する」食堂にいた江川に対して「嫌な奴がメシ食ってる」と発言したともされる。王の監督在任中の1985年にバースにストライクを投げたら罰金と言うベンチの指示を無視したり、1987年に江川が引退したことは、これらの王の発言に対する江川の報復であると考えるファンもいる。

1996年3月30日の開幕戦は千葉マリンスタジアムでの千葉ロッテマリーンズ戦。この年ロッテの監督に就任した江尻亮は、エースクラスの伊良部秀輝や小宮山悟ではなく、園川一美を開幕投手に指名した。開幕戦前日にこのことを知った王は「開幕投手には格というものがあるだろう」と激怒。ところが開幕戦では園川を5回途中で降板に追い込んだもののその時点でチームは2-5とリードされており(最終的に4-6で敗戦)、王のこの発言も「負け犬の遠吠え」で片付けられてしまった。

常人離れした自己抑制心の持ち主で、現役時代は毎年シーズン前に不安を抑えるためタバコを吸い、シーズンが始まるとタバコを止めるという事を繰り返した。

全米の野球マニアにもベーブ・ルース、ハンク・アーロンより多い868本の本塁打を打った「サダハル・オー」の名は知られている。第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会では観客から日本チームの誰よりも大きな拍手と声援で迎えられ、日米野球ではサインや握手を求めるメジャーの選手が殺到するほどである。実際に、2005年ソフトバンクでプレーしたトニー・バティスタ経由で、サミー・ソーサやミゲル・テハダが王のサインボールを手に入れている。

「世界のホームラン王」として世界中の野球人から尊敬される『生きる伝説』王貞治の登場が、WBCの大会価値を大いに向上させた点も見逃すことはできない。またこのWBC優勝により、福留孝介の代打起用やイチローを中心とするスモール・ベースボールなどの采配、「世界の王」としてのチームのモチベーションへの影響力などが改めて見直され、メディアもこれらを大々的に報じ、2度の日本一の時以上に監督としての王の名が世間に知れ渡ることとなった。さらに日本を世界一に導いたことで、「世界の王」という名称が今まで以上に使われるようになった。しかしながら本人は、「世界の王」とはバットを持っていた時(=現役当時)の話であり、既に現役を引退し監督となり長年経過した現在は「世界の王」ではないとインタビュー(1999年10月28日放送のTBS系ZONE)で話している。

優勝の際の胴上げで舞う姿は、手足を指先まで伸ばし、非常に美しいことも有名。『ザ!鉄腕!DASH!!』で胴上げに関する企画を行う際、その年の日本一になったこともあり、理想の「上げられ側」のモデルとされた。ホークスでは鷹の羽ばたきを意識してか両腕を横に広げることが多いが、WBCではオーソドックスに上の方に伸ばしていた。

王の業績を記念した球場「早稲田実業学校・王貞治記念グラウンド」が八王子市にある。

2006年12月12日、毎日スポーツ人賞の感動賞をWBC日本代表チームと共に受賞した。

2006年12月20日、日本プロスポーツ協会からWBC日本代表として日本プロスポーツ大賞を受賞した。また、個人として日本プロスポーツ特別賞も同時に受賞している。

[編集] 人物・プライベート

真摯で誠実な人柄でも知られ、夫人の葬儀に参列した全ての人物に直接電話し感謝の言葉を述べたという。まさか自分のところに電話がかかってくるとは思わずに参列した金村義明は、電話に出た彼の三男が「ママ、"ダイエーのおう"から電話!」と、受話器を塞がず大声で取り次いだため、妻が電話口で平謝りしたというエピソードを披露していた(金村宅に電話がかかってきた際、金村本人は不在だった)。

庶民的感覚も持ち合わせており、外食に行く際、連れ合いが高級な店を薦めても「俺は中華料理屋(もしくはラーメン屋)の倅(せがれ)だから」と大衆的な店にふらりと立ち寄るらしい。ちなみにその口癖は、胃がん手術後の退院会見にて「胃がなくなり消化できないのでしばらく食べられない」という意味でも使われ、周囲を笑わせた(しかしその際の発言内容は、解釈によっては「ラーメンは体に良くない」とも受け取れる内容だったため、皮肉にも本人の意図とは裏腹に「ラーメン屋に対する営業妨害だ」として球団にラーメン屋からの苦情が殺到する事態になった)。

大食漢。子供の頃はおやつ代わりにラーメンやカレーを平らげ、夕食を食べた後もうどんを平らげていた。大人になってもそれは変わらず、中華料理屋でも出てきた料理を片っ端から平らげる。そのため、誰も隣に座りたがらなかったという。さらに酒豪でもあり、若い頃は毎晩のように銀座の高級クラブに繰り出し、浴びるように酒を飲んでいた。飲み比べをして勝てなかったのは横綱の大鵬だけという。第1回 ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)世界大会の優勝時には、部屋にあったビールを全部1人で飲み乾してしまった程である。しかし、その大食いが胃癌を患った原因の可能性は否めない。

字を書く時やゴルフ、箸は右利き。本来は右利きだが、野球に限らずスポーツでは左利きが有利になるため、左利きであった。野球でも当初は左投げで右打ちだったため、中学時代、王を見ていた荒川博に左で打ったほうがもっと打てる言われて左で打つようになった。

妻へのプロポーズの言葉は「ドドンパはお好きですか?」だったという。

家ではかなりの亭主関白だったらしく、本当に家の仕事は全く何もしなかったという。屋根の修理さえも妻の仕事。また礼儀作法に厳しく、娘たちが自分の言った事に対して口答えをすると容赦なく鉄拳を振るい、鼻血が出るまで殴っていたこともあるという。

3人の娘にはすべて「理」と付く名前をつけた。これは、いずれ嫁に行き、姓が変わってしまう娘だが、王の娘としていてほしい、里は王家だ、という切ない願いをこめて「里」に「王」の偏をつけた「理」とした。

三女が産まれた時に、王は男の子が欲しかったが、また女の子だったので舌打ちをしてしまい夫人に怒られた(ちなみに当時は「男の子=ストライク、女の子=ボール」と考える野球選手が多く、稲尾和久や張本勲もこのような話をしている)。

長女が年頃になったときに性教育を教えないといけないと思った王は、長女の前で全裸になって変態扱いされている。

次女の理恵が「ふくらはぎが太いのは、お父様のせいだ!」と王にやつ当たりしている。この事から王は、娘にお父様と呼ばせている事が判明した。

現役時代、独学でピアノを習い、試合前に自宅で精神集中のためによくピアノを演奏していた。しかし、本当の理由は王自身が"大スター"になってしまったために、王の利益等を目当てに取り付く取巻き等を近づけさせないためで、本当はアウトドア派である。そのため、王本人はピアノを趣味だと思われるのは嫌らしい。しかしながら現在も時々ピアノを弾くようである。

父親は大陸からひとりで日本に渡って来た天涯孤独に近い境遇で、また戦時中は敵国人でもあったため、母方の親族から正式な結婚を許してもらえなかった。そのため終戦後に晴れて入籍するまでは、王とその兄弟は母親の私生児として当住姓を名乗り、日本国籍を保有していた。

東京在住時には料理を全くしなかった(しかし、スパゲティだけはかなりの凝りようで、クロマティにも作り方の指導していたエピソードがある。)王だが、単身赴任となった現在では魚を3枚に下ろせるほどの腕前らしい。生家が中華料理屋であったので元々ある程度の料理は習得していたという説もある。またパソコンも使いこなし、WBC期間中はソフトバンクのオープン戦の動画をアメリカで見たり、またタッチタイピングもできるとの事。

現役・監督時代を通じ数々の表彰を受けてきたが、そこで頂いたものは人にあげたり寄贈したりすることが多く、家にはそれに関するものはほとんど残っていないらしい(長嶋茂雄も同じ)。

律儀な性格で、ファンレターや年賀状の返事は必ず書いていた。キャンプ地に持ち込んだ葉書や便箋の量は、数万通とも言われている。

球界を代表する人格者であるところは疑う余地は無いが、酒豪で若い頃には門限破りの常連で、夜な夜な銀座や赤坂のクラブ通いをした時期もあった。王自身も後に、「高校出立ての体力でお金があって、綺麗なシャンデリア、美しい女性、おかしくならないわけ無いじゃないですか」と後に述懐している。ただし、荒川コーチに酒、タバコを禁止されてからは、完全に改心している。

長年巨人の寮長として活躍した武宮敏明によると、歴代の3ワルは王、柴田勲、堀内恒夫との事。3人とも名球会入りしている。堀内がやはり若い頃に夜遊びが盛んだったのを王が咎め、泣きながら堀内に鉄拳制裁を加えたのは有名なエピソードでもある。

好奇心が非常に旺盛。よくメモを取る。自宅にいても気が付いたことは必ずメモする。また、ウインドーショッピングが大好き。「何にでも興味を持たないと」とは本人談。

政治家の二階俊博とは知人である。

現役時代にレコード「白いボール」をリリースしたが、ローズとカブレラの敬遠騒動の際にこれの歌詞を継ぎ接ぎでつなぎ合わせた「敬遠のボール」なるフラッシュが作られた。

大橋巨泉とも仲が良く、リタイアしてカナダでの居住生活を勧められていたが、福岡で監督業の仕事が入り、実現できずに現在に至る。

作家・山口瞳と夜の街で呑む際、「俺が行くとみんな俺がカネ持ってると思って高いものばっかり出すんだ」と、自慢に聞こえるように言っており、山口も最初はムッとしたが、後で王の優しさを感じ取った。

[編集] その他

1981年から1993年の13年間、毎年朝日放送製作(自らの個人事務所・オフィスフラミンゴ協力)で、正月に「新春ビッグ放談」と題した対談番組のホストを担当した。(途中1989年だけ王自身は巨人監督を辞任関係などから出演せず)毎年スポーツ界を代表する選手との対談を実施。最終年の1993年は当時巨人監督に復帰した長嶋茂雄とのON対談が実現した。

2003年夏にフジテレビ系バラエティ番組『ワンナイR&R』の中で王監督に対する侮辱的シーン(コント「ジャパネットはかた」にて、“王シュレット”という王監督の顔を模った洗浄便座を紹介)が放送され当時のダイエー球団サイドが抗議し、同球団はフジテレビ系列の取材を一切拒否。後日フジテレビは放送上等で謝罪するが、同年の日本シリーズでの放送権を剥奪され、また通信販売業のジャパネットたかたからも「あまりにも良識の範囲を超えている」と抗議された。それ以降フジテレビ系列(福岡地区ローカル以外)でのホークス戦の放送を自粛していたが、2005年5月17日のソフトバンク対巨人戦から解禁された。

監督時、シーズン終盤において、自らの年間本塁打記録に迫る打者(1985年 阪神・ランディ・バース、2001年 近鉄・タフィ・ローズ、2002年 西武・アレックス・カブレラ)への敬遠を黙認した。この事により、一部の野球ファンからは「敬遠の王」と揶揄される事もある。なおローズは試合前に王を表敬訪問して「シックスティホームランOK?」と声をかけられている(またその時ローズに対し「ぜひ新記録を達成して欲しい」と言っている)。2001年のタフィ・ローズの件は、元は当時ホークスのバッテリーコーチだった若菜嘉晴が指示したものであると若菜自身が公言したこともあるが「試合前の発言が本当ならなぜ敬遠をやめさせなかったのか?」という非難の声も上がっている。

親会社の携帯電話事業が始まると、生真面目な王らしく、即座に番号ポータビリティを利用してドコモからソフトバンクモバイルに乗り換えた。

2006年のWBCで優勝を果たしメダルを受領する時、日本チームの中ではただ1人帽子を取らずに受領した。

2006年11月のアメリカ誌「タイム」アジア版において、アジア版60周年を記念して特集された、政治、ビジネスなど5分野で活躍した66人が英雄に選ばれる「60年のアジアの英雄」の一人に選ばれた。

[編集] 通算打撃成績

(表中の太字は年度リーグ最多記録)

年度 試合数 打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 塁打 打点 盗塁 盗塁刺 四球 死球 三振 打率
1959å¹´ 94 193 18 31 7 1 7 61 25 3 1 24 3 72 .161
1960å¹´ 130 426 49 115 19 3 17 191 71 5 4 67 5 101 .270
1961å¹´ 127 396 50 100 25 6 13 176 53 10 5 64 3 72 .253
1962å¹´ 134 497 79 135 28 2 38 281 85 6 4 72 12 99 .272
1963å¹´ 140 478 111 146 30 5 40 306 106 9 5 123 6 64 .305
1964å¹´ 140 472 110 151 24 0 55 340 119 6 4 119 3 81 .320
1965å¹´ 135 428 104 138 19 1 42 285 104 2 4 138 6 58 .322
1966å¹´ 129 396 111 123 14 1 48 283 116 9 4 142 7 51 .311
1967å¹´ 133 426 94 139 22 3 47 308 108 3 5 130 7 65 .326
1968å¹´ 131 442 107 144 28 0 49 319 119 5 1 121 10 72 .326
1969å¹´ 130 452 112 156 24 0 44 312 103 5 2 111 5 61 .345
1970å¹´ 129 425 97 138 24 0 47 303 93 1 4 119 6 48 .325
1971å¹´ 130 434 92 120 18 2 39 259 101 8 2 121 5 65 .276
1972å¹´ 130 456 104 135 19 0 48 298 120 2 0 108 6 43 .296
1973å¹´ 130 428 111 152 18 0 51 323 114 2 1 124 4 41 .355
1974å¹´ 130 385 105 128 18 0 49 293 107 1 5 158 8 44 .332
1975å¹´ 128 393 77 112 14 0 33 225 96 1 0 123 1 62 .285
1976å¹´ 122 400 99 130 11 1 49 290 123 3 1 125 2 45 .325
1977å¹´ 130 432 114 140 15 0 50 305 124 1 3 126 6 37 .324
1978å¹´ 130 440 91 132 20 0 39 269 118 1 2 114 1 43 .300
1979å¹´ 120 407 73 116 15 0 33 230 81 1 1 89 5 48 .285
1980å¹´ 129 476 59 105 10 0 30 205 84 0 1 72 3 47 .236
通算 2831 9250 1967 2786 422 25 868 5862 2170 84 59 2390 114 1319 .301
  • 通算試合 2831試合(歴代2位)
  • 通算打率 .301
  • 通算安打 2786本(歴代3位)
  • 通算本塁打 868本(歴代1位)
  • 通算打点 2170打点(歴代1位)
  • 通算盗塁 84盗塁
  • 通算犠打 12個
  • 通算犠飛 100本(歴代3位)
  • 通算四球 2390個(歴代1位)
  • 通算死球 114個
  • 通算三振 1319三振
  • 通算併殺打 159個
  • 通算敬遠数 427個(歴代1位)
  • 通算満塁本塁打 15本(歴代1位)
  • 通算得点 1967点(歴代1位)
  • 通算長打 1315本(歴代1位)

[編集] タイトル

  • 三冠王 2回(1973å¹´-1974年)
  • 首位打者 5回(1968å¹´-1970年、1973å¹´-1974年)
  • 本塁打王 15回(1962å¹´-1974年、1976å¹´-1977年)
  • 打点王 13回(1962年、1964å¹´-1967年、1971å¹´-1978年)
  • 最多出塁数 12回(1967å¹´-1978年)
  • MVP 9回(1964å¹´-1965年、1967年、1969å¹´-1970年、1973å¹´-1974年、1976å¹´-1977年)
  • ベストナイン 18年連続18回(1962å¹´-1979年)
  • ゴールデングラブ賞 9年連続9回(1972å¹´-1980年)※第1回が1972å¹´

[編集] 表彰

[編集] 記録

  • シーズン最多本塁打 55本(1964年)
  • シーズン最多四球 158個(1974年)
  • シーズン最多四死球 170個(1974年)
  • シーズン最高OPS 1.281(1974年)
  • シーズン最多出塁数 294個(1974年)
  • シーズン最高出塁率 .534(1974年)
  • シーズン最高本塁打率 7.94(1974年)
  • 4打席連続本塁打(1964年、5月3日阪神戦、日本記録)
  • 1試合4本塁打(1964年、5月3日阪神戦、日本記録)
  • 1シーズン50ホームラン以上 3回(1964年、1973年、1977年、日本記録)
  • 1シーズン40ホームラン以上 8年連続含む13回(1963å¹´-1970年、1972å¹´-1974年、1976å¹´-1977年、日本記録)
  • 1シーズン30ホームラン以上 19年連続19回(1962å¹´-1980年、日本記録)
  • 1シーズン30本塁打到達スピード1位 64試合
  • 通算400本塁打到達スピード歴代1位 1422試合
  • 通算450本塁打到達スピード歴代1位 1559試合
  • 通算500本塁打到達スピード歴代1位 1723試合
  • 打率ベストテン入り 16年連続含む17回(1960年、1962å¹´-1977年、日本記録)
  • 1シーズン100安打以上 21年連続21回(1960å¹´-1980年、日本記録)
  • 1シーズン100打点以上 7年連続含む14回(1963å¹´-1969年、1971å¹´-1974年、1976å¹´-1978年、日本記録)
  • 最高出塁率 12年連続12回(1967å¹´-1978年、日本記録)
  • 5360試合連続退場なし(1959å¹´-1987年、1995å¹´-継続中、日本記録)
  • 1試合2本塁打95回 歴代1位

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 本塁打 打率 防御率 年齢 球団
1984年 3位 130 67 54 9 .554 8.5 186 .268 3.66 44歳 巨人
1985年 3位 130 61 60 9 .504 12 157 .279 3.96 45歳
1986年 2位 130 75 48 7 .610 0 155 .270 3.12 46歳
1987年 1位 130 76 43 11 .639 ― 159 .281 3.06 47歳
1988年 2位 130 68 59 3 .535 12 134 .268 3.09 48歳
1995年 5位 130 54 72 4 .429 26.5 94 .259 4.16 55歳 ダイエー
1996年 6位 130 54 74 2 .422 22 97 .263 4.04 56歳
1997年 4位 135 63 71 1 .470 14 132 .264 4.26 57歳
1998年 3位 135 67 67 1 .500 4.5 100 .264 4.02 58歳
1999年 1位 135 78 54 3 .591 - 140 .257 3.65 59歳
2000年 1位 135 73 60 2 .549 - 129 .268 4.03 60歳
2001年 2位 140 76 63 1 .547 2.5 203 .273 4.49 61歳
2002年 2位 140 73 65 2 .529 16.5 160 .267 3.86 62歳
2003年 1位 140 82 55 3 .599 - 154 .297 3.94 63歳
2004年 2位(※3) 133 77 52 4 .597 - 183 .292 4.57 64歳
2005年 2位(※4) 136 89 45 2 .664 - 172 .281 3.46 65歳 ソフトバンク
2006年 3位 136 75 56 5 .573 - 82 .259 3.13 66歳
※1 太字は日本一
※2 2004年は選手会ストライキのため2試合が開催されず
※3 レギュラーシーズンは1位だったが、プレーオフで西武に負け優勝を逃す。
※4 レギュラーシーズンは1位だったが、プレーオフでロッテに負け優勝を逃す。
※5 2006年はシーズン途中から癌の治療のため休養。以降の監督代行は森脇浩司。

[編集] ポストシーズン

年度 大会名 対戦相手 勝敗
1987年 日本シリーズ 西武ライオンズ 2勝4敗
1999年 日本シリーズ 中日ドラゴンズ 4勝1敗
2000年 日本シリーズ 読売ジャイアンツ 2勝4敗
2003年 日本シリーズ 阪神タイガース 4勝3敗
2004年 パ・リーグプレーオフ2ndステージ 西武ライオンズ 2勝3敗
2005年 パ・リーグプレーオフ2ndステージ 千葉ロッテマリーンズ 2勝3敗

※1987年は巨人、1999年~2004年はダイエー、2005年はソフトバンク。

  • 監督通算成績 2139試合 1133勝942æ•—64分 勝率.546

[編集] WBC 国・地域別対抗野球大会

2006年に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)第1回大会では、監督として日本チームを世界一の座に導く。

年度 大会名 チーム名 勝敗
2006年 第1回WBC(ワールド・ベースボール・クラシック) 日本代表 優勝

[編集] 背番号

  • 1(1959å¹´ - 1988年) ※巨人軍の永久欠番になっている。
  • 89(1995å¹´ - ) - 「野球」「破竹の勢い」にかけた。

[編集] CM

  • ナボナ(亀屋万年堂・出演終了。1970年代)
    当時の社長の娘と結婚したチームメイトの国松彰との縁で出演。「ナボナはお菓子のホームラン王です」のフレーズが有名。その後、「森の詩」をはじめ、亀屋万年堂の他製品にも範囲を広げた。現在TVCMはなくなったが、関東方面のJR線や東急線での車内広告は今も続いており、その際に顔が見られる。
  • リポビタンD(大正製薬・出演終了。1960年代)
    ※2005年に1962年初売された復刻版限定ボトルのCMに登場。このCMでは初売された当時の映像と「ファイトで行こう!! リポビタンD」のフレーズが再現されている。1964年5月3日の阪神戦・4打席4打数連続ホームランを達成した時の日テレのテレビ中継の協賛社が大正製薬1社のみで、中継で再三「リポビタンD」の看板が映し出された。
    ※ちなみに王がこのCMを降板したのは厚生省(現:厚生労働省)が薬物乱用防止を理由に医薬品のCMにスポーツ選手・アクション系の俳優を起用することを厳禁したためだが、大正製薬は命令を無視して起用し続けたためついに警告を受け、降板せざるを得なくなった。
  • キドカラー(日立製作所・出演終了。1970年代)
  • 日産自動車(出演終了。1983年)
    ※1983年に日産自動車が創業50周年を迎えた事を記念して、数々の特別仕様車などが発売され、王がCMキャラクターとして出演していた。
  • 障害者キャンペーン・目隠し編(公共広告機構・出演終了。1970年代)
  • ヴィクトリアスポーツ(ヴィクトリア・出演終了)
  • カロリーメイト(大塚製薬・出演終了)
  • ボンカレーゴールド(大塚食品・出演終了)
  • J.O.(アサヒ飲料・出演終了。1989~1990年)
  • 西川産業(東京西川・現在出演中。)
  • WBC日本代表応援CM(アサヒビール・出演終了。2006年)

また、直接の出演ではないが、日清食品のカップヌードルのCMに、自身の756号本塁打の映像が使われたことがあり、CM中では乱入した永瀬正敏と「共演」している。

[編集] 歌

[編集] 本人が歌っているもの

  • 白いボール(1965å¹´5月発売、本間千代子とデュエット)
    オリジナル盤のB面は第三日野小学校児童による『ぼくらのホームラン王』。1977年に「ホームラン世界新記録達成記念盤」として再発されている。このときのB面は藤川純一による読売巨人軍球団歌『闘魂こめて』。また、オムニバスCD『珍品堂 いっ!あの人がこんな歌を』にも収録。
  • 六つの星(1976å¹´5月1日発売、メインボーカルは細川たかし)
    田淵幸一、山本浩二、星野仙一、平松政次、松岡弘と共にバックコーラスを担当

[編集] 歌詞に関連しているもの

  • サウスポー(1978å¹´3月25日発売、ピンク・レディー)
    歌詞の冒頭に出てくる対戦相手は王をイメージしており、全編としてその対戦を(投手側から)歌った内容になっている。
  • ピンポンパン体操(1971å¹´12月発売、金森勢&杉並児童合唱団)
    「でんぐり返って王選手」というフレーズがある。

なお、「サウスポー」「ピンポンパン体操」ともに作詞は阿久悠である。阿久によると、「サウスポー」については後に王本人から「僕の歌ありがとう」と言われたとのこと。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

Wikinews
ウィキニュースに王貞治に関連するニュースがあります。
先代:
国松彰
読売ジャイアンツ4番打者
第28代
次代:
池沢義行
先代:
藤田元司(1981年~1983年)
読売ジャイアンツ監督
(1984年~1988年)
次代:
藤田元司(1989年~1992年)
先代:
根本陸夫(1993年~1994年)
福岡ダイエーホークス、福岡ソフトバンクホークス監督
(1995年~2006年途中)
次代:
森脇浩司(2006年途中)
先代:
森脇浩司(2006年途中)
福岡ソフトバンクホークス監督
(2007年~)
次代:
-
先代:
-
WBC日本代表監督
(2006年)
次代:
未定(予定では2009年に開催)
  • 2006年シーズンは病気治療のため7月途中から休養。


国民栄誉賞
王貞治 | 古賀政男 | 長谷川一夫 | 植村直己
山下泰裕 | 衣笠祥雄 | 美空ひばり | 千代の富士貢
藤山一郎 | 長谷川町子 | 服部良一 | 渥美清
吉田正 | 黒澤明 | 高橋尚子
他の言語

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