明石康
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明石 康(あかし やすし、1931年1月19日 - )は、特定非営利活動法人日本紛争予防センター会長、元国連事務次長。
秋田県比内町(現大館市)出身。小学生の時、秋田市に移住。県立秋田中学校(現在の秋田県立秋田高等学校)から東京大学に進学。教養学部アメリカ学科卒業後、フルブライト留学生としてアメリカに渡り、バージニア大学大学院を修了、コロンビア大学で学ぶ。1957年に日本人として初めての国連職員に採用された。1992年に国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)事務総長特別代表に就任、カンボジア和平につとめた。
1994年には当時進行中であったユーゴスラヴィア紛争収拾のため旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表に就任するが、ボスニアにおいて攻勢を強めるセルビア人勢力への対応について指導力・決断力を発揮し得ず、スレブレニツァ虐殺事件 の発生を招いた(当時、明石は国連防護軍の最高指揮権を附与されており、セルビア人勢力へのNATO軍への空爆を招請すべき立場にあった)。
この事件のため、日本国内での声望の高さに比して海外での明石の評価はすこぶる低い。
1999年、広島市立大学付属広島平和研究所所長に就任するも即時退任。4月には東京都知事選に出馬したものの、石原慎太郎に大差で敗れ当選には至らなかった。東京都知事選に出馬した際は自民党・公明党から支持された。
[編集] 略歴
- 1957年:国連職員に採用
- 1974年:国連日本政府代表部参事官就任
- 1979年:国連広報担当事務次長就任
- 1992年:国連カンボジア暫定統治機構事務総長特別代表就任
- 1994年:旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表就任
- 1995年:国連事務総長特別顧問に就任
- 1996年:人道問題担当事務次長就任。
- 1997年11月:国連退任。
[編集] 社会的活動
- 国立大学法人東京外国語大学経営協議会委員
- 東京外国語大学国際学術戦略本部アドバイザリー・コミティ委員
[編集] 著書
- 国連に生きる/日本人国連職員の体験記(1984年、世界の動き社) - 監修
- 国連ビルの窓から――国際社会に生きる一日本人の意見と回想(1984年、サイマル出版会)
- 国際連合――その光と影(1985年、岩波書店[岩波新書])
- 国連から見た世界――国際社会の新秩序を求めて(1992年、サイマル出版会)
- An Agenda for Hope: The U.N. in a New Era(1993年、Simul Press)
- 忍耐と希望――カンボジアの560日(1995年、朝日新聞社)
- 私のPKO――明石康インタビュー(1996年、東京新聞出版局)
- 平和へのかけ橋(1996年、講談社)
- サムライと英語(2004年、角川書店)
- 国際連合――軌跡と展望(2006年、岩波書店[岩波新書])