本多会
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本多会(ほんだ かい)は、過去に存在した神戸市兵庫区に本部を置き、2都道府県以上に渡り活動範囲を持っていた広域暴力団である。;1950年創設~1965年解散。
神戸市に主たる事務所を置く港湾荷役業大嶋組(初代組長大嶋秀吉)の元乾児の名称本多仁介が、1938年の神戸市の大災害における河川護岸工事を契機に組員を糾合。1940年に大嶋組から独立、本多組(ほんだぐみ)として同業と交際。本多組は倉庫業、湾岸荷役業が主たる業務。1950年、花興行と呼ばれる勢力誇示の興行を主催した契機に本多会として改称した。なお本多仁介は神戸の名士としても、その名を知られたらしい。
組織は本多を首領として4天王とも28人衆とも呼ばれる大幹部陣が組内を統率。数百の二次団体の組員数を集めると団体構成員は4千人を超える規模だった。活動範囲を、主に近畿、四国、中国、中部地方まで勢力を広げていた。同時期に関西を中心に活動していた三代目山口組と、二次団体同士が「広島抗争」などの抗争事件を起こした。
1963年、本多の乾児の名称平田勝市が団体の首領として会長職を継承。二代目継承の三宮で開いた披露宴に、自民党副総裁の大野 伴睦など著名人が多数参列した。平田は1964年5月25日に神戸市内にて松葉会(旧関根組)の藤田卯一郎と兄弟分の盃を交わした。
平田勝市は会長職就任後、膨張する三代目山口組と対決姿勢を前面に打ち出すなど武闘派としての評価がある。巷間、第一次頂上作戦と現在まで呼ばれる警察と各省庁が一体となった組織暴力壊滅運動によって1965年4月に解散した。本多仁介と親交のあった佐藤栄作から本多会の解散をするべきではと示唆されたと云う説もある。
本多会を解散した後、会長だった平田は右翼団体アジア大日本平和会(後日、「大日本平和会」)を創設したが、これをよしとせず袂を別った本多会の傘下団体も多い。なお、平田の反共運動へ時期は不明だがアメリカ政府の高官から感謝状が渡されている。本多会の二次団体としては中京浅野会(名古屋市中区)、北原組(高松)、木下会(姫路)、山口組と松山抗争を引き起こした郷田会(松山)などが著名な傘下組織である。
本多家は現在でも著名な建設会社や倉庫会社を神戸市にて運営しているが、組織暴力団とは関係はない。
東映映画「日本の仁義」のモデルでもある。
[編集] 歴代会長
- 初代:本多仁介
- 2代目:平田勝市