佐藤栄作
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生年月日 | 1901年(明治34年)3月27日 |
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出生地 | 山口県熊毛郡田布施町 |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科卒業 |
学位・資格 | 従一位 大勲位菊花章頸飾 法学士(東京帝国大学) ノーベル平和賞 |
前職 | 鉄道省行政官 二日市駅駅長 門司鉄道局庶務課文書掛掛長 鳥栖運輸事務所所長 門司鉄道局運輸課庶務掛掛長 鉄道省監督局総務課課長 鉄道省監督局局長 大阪鉄道局局長 運輸省鉄道総局長官 運輸省事務次官 内閣官房長官 衆議院議員 郵政大臣 電気通信大臣 建設大臣 北海道開発庁長官 大蔵大臣 通商産業大臣 |
世襲の有無 | 家族・親族関係参照 |
在任期間 | 1964年11月9日 - 1972年7月7日 |
選挙区 | 旧山口2区(現在はない) |
当選回数 | 衆10回 |
所属(推薦)党派 | 自由民主党 |
佐藤 栄作(佐藤榮作 さとう えいさく、1901年(明治34年)3月27日 - 1975年(昭和50年)6月3日)は、日本の鉄道官僚、政治家。第61、62、63代内閣総理大臣。
ノーベル平和賞受賞。従一位 大勲位。衆議院議員永年在職表彰受彰。戸籍上の表記は旧字体の「榮作」。自由民主党史上唯一4選された総裁。総理大臣在任期間は歴代総理中第二位で、連続在任期間は歴代総理中最長の7年8ヶ月。首相岸信介は兄。首相吉田茂は遠縁にあたる。
目次 |
[編集] 年譜
- 1901年3月:山口県熊毛郡田布施村田縫(現・田布施町)に酒造業 佐藤秀助 茂世(もよ)の七番目の子(三男)としてうまれる。
- 1907年4月:国木尋常小学校入学
- 1913年4月:山口県立山口中学校(現・山口県立山口高等学校)入学
- 1918年9月:第五高等学校(一部丙類)入学(首相・池田勇人とは名古屋で受験のとき一緒になっただけでクラスも違い五高時代は交渉がなかった)
- 1921年4月:東京帝国大学法学部法律学科(独法)入学
- 1923年12月:高等文官試験(行政)合格
- 1924年4月:東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業 5月:鉄道省入省(就職の第一志望は日本郵船であったが不採用となった。鉄道省へは親戚の松岡洋右が鉄道大臣の小松謙次郎に頼んでいたので順調に採用された)。6月:鉄道局書記・門司鉄道局勤務
- 1926年2月:従妹である寛子(外相松岡洋右の姪)と結婚。11月:二日市駅長
- 1928年4月:長男・龍太郎が生まれる
- 1929年5月:門司鉄道局庶務課文書掛長。
- 1931年4月:門司鉄道局鳥栖運輸事務所長
- 1932年2月:次男・信二が生まれる
- 1933年8月:門司鉄道局運輸庶務掛長
- 1934年6月:米国の鉄道研究を目的とした在外研究員 8月に出発
- 1936年4月:帰国 7月:鉄道省事務官・監督局業務課勤務
- 1937年6月:鉄道省陸運監理官
- 1938年5月:中華民国へ出張 6月に帰国 8月鉄道書記官・監督局鉄道課長 9月:中華民国へ出張
- 1939年6月:中華民国より帰国
- 1940年6月:鉄道省監督局総務課長
- 1941年12月:鉄道省監督局長
- 1942年11月:監理局長
- 1943年11月:運輸通信省自動車局長
- 1944年4月:大阪鉄道局長(大阪鉄道局長は地方局としては最高のポストでも本省の局長の転任先ではない。いわば“左遷”であった。業務上の立場から陸軍と対立したためとされる。)
- 1946年2月:運輸省鉄道総局長官。敗戦後、上席者が軒並み公職追放となったため、抜擢される。
- 1947年2月:運輸次官
- 1948年3月:運輸次官を依願免官。4月:民主自由党山口県連合会支部長 10月:第2次吉田内閣で官房長官に就任(~1949年2月)
- 1949年1月:衆議院議員に初当選(~1975年6月)
- 1950年4月:自由党幹事長
- 1951年7月、12月:第3次吉田内閣第2次改造内閣、第3次吉田内閣第3次改造内閣で郵政大臣兼電気通信大臣に就任(~1952年7月)
- 1952年10月:第4次吉田内閣で建設大臣兼国務大臣北海道開発庁長官に就任(~1953年2月)
- 1954年4月:造船疑獄で逮捕請求に犬養健法務大臣が指揮権発動 7月:幹事長辞任 党総務
- 1955年11月:自由民主党結成に不参加 無所属となる
- 1956年12月:政治資金規正法違反で訴追されたが、国連加盟の恩赦で免訴。
- 1957年2月:吉田の政敵であった鳩山一郎の引退後、自由民主党入党。
- 1958年6月:第2次岸内閣で大蔵大臣に就任(~1960年7月)
- 1961年7月:第2次池田内閣第1次改造内閣で通商産業大臣に就任(~1962年7月)
- 1963年7月:第2次池田内閣第3次改造内閣で北海道開発庁長官 科学技術庁長官に就任
- 1964年11月:第1次佐藤内閣成立 内閣総理大臣に就任(~1972年7月) 12月:自由民主党総裁
- 1967年2月:第2次佐藤内閣成立 12月:衆院予算委において非核三原則言明
- 1970年1月:第3次佐藤内閣成立
- 1972年6月:自由民主党両院議員総会で退陣を表明 内閣記者団と衝突 7月:内閣総辞職 11月:大勲位菊花大綬章受章
- 1974年12月:ノーベル平和賞受賞。
- 1975年5月:新橋の料亭で倒れ昏睡状態となる 6月:意識不明のまま死去。享年74。従一位・大勲位菊花章頸飾追贈の後、国民葬。
- 1977年5月15日:遺骨は山口県田布施町国木の佐藤家墓地に埋葬
[編集] 政歴
遠縁に当たる吉田茂首相とは早くから親交があり、その勧めで総選挙に出馬を予定していたが、第2次吉田内閣で非議員ながら入閣。池田勇人と共に「吉田学校」の代表格だが、自由党幹事長時代に造船疑獄が発覚。逮捕状が出されるも、犬養健法相による検察指揮権の発動により逮捕を免れた。
保守合同による自由民主党結成では、自民党参加を拒否した吉田に、橋本登美三郎らとともに従った。実兄である岸信介が総理大臣、自民党党総裁に就任すると、自民党へ入党。兄の片腕として党総務会長に就任、三木武夫政務調査会長と共に岸政権を支えた。
[編集] 内閣総理大臣就任
1964年(昭和39年)7月、佐藤は、池田の三選阻止を掲げ自民党総裁選挙に出馬した。激しい抗争であったが、党人派の支持を固めた池田が過半数をわずかに超え辛勝した。佐藤は、暫しの冷や飯食いを覚悟したというが、同年11月、池田勇人首相の病気退陣に伴い、自民党の後継総裁に指名され、内閣総理大臣に就任した。総裁選直後に前任者が病気退陣で後継者に選ばれるのは、奇しくも実兄・岸信介と同じであった。総理在任中は、日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約(日韓基本条約)の批准、建国記念の日や公害対策基本法の制定、小笠原諸島・沖縄の返還実現、日米安全保障条約延長等を行なう。1967年(昭和42)12月11日には、衆議院予算委員会の答弁に際し、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」の、いわゆる非核三原則を示した。
総理大臣在職中、その官僚的・高圧的態度で国民的人気は高くなかったが、世は高度経済成長・昭和元禄を謳歌し、政権を脅かすには至らなかった。一方、自民党内で佐藤に対峙する党人派は、大野伴睦(1964年5月没)、河野一郎(1965年7月没)といった実力者が相次いで他界、特に世論から期待の声が高かった河野一郎の死は佐藤の長期政権に拍車をかけたといえる。このように佐藤にとって政敵不在の中、政府・党の要職に田中角栄、福田赳夫を就けては競わせ、「人事の佐藤」と称される人心掌握術で政権の求心力を高めた。
1970年(昭和45年)の自民党総裁4選については、自民党内部に政権の長期化を懸念し、勇退による福田への禅譲論の声もあった。しかし次期総裁を狙いつつ、佐藤派内の掌握のため時間を稼ぎたい田中と、旧岸派分裂時に、“福田嫌い”から袂を分かった自民党副総裁川島正次郎の思惑などが合致し、川島は佐藤に4選を持ちかける。そして佐藤は「沖縄返還の筋道をつける」事を名目に、現在まで唯一・最多の自民党総裁4選を果たした。しかし4選以降は急速に政権の求心力は失われ、後継者と目していた福田への政権禅譲を果たせぬまま、1972年(昭和47年)7月に総理大臣を辞任。1975年(昭和50年)、料亭新喜楽で会食中に脳卒中で倒れ、昏睡したまま6月3日に死去。享年74。墓所は杉並区の本願寺別院和田堀廟所と田布施町にある。
[編集] 栄典
[編集] 家族・親族関係
- 曽祖父・佐藤信寛(長州藩士 島根県令)
- 祖父・信彦(漢学者、県会議員)
- 祖母・みね(徳山藩士・国広治左衛門の娘)
- 父・秀助(田布施・岸要蔵三男 山口県庁官吏、酒造業)
- 母・茂世(田布施・佐藤信彦長女)
- 叔父・松介(学者)
- 長兄・市郎(軍人・海軍中将)
- 次兄・信介(岸信政へ養子。官僚、政治家、首相)
- 孫・阿達雅志(自由民主党参議院比例代表支部長)
- 従弟・吉田寛(首相・吉田茂の娘・桜子と結婚する)
- 従妹・妻・寛子(叔父・松介の長女。外務大臣松岡洋右の姪)。
- 長男・龍太郎(JR西日本取締役等を務めた)
- 次男・信二(政治家)
- 姪の婿・安倍晋太郎(政治家)
- 又甥・安倍晋三(政治家・首相)
- 又甥・岸信夫(政治家)
[編集] 系譜
- 佐藤家 佐藤家の祖先について、確証はないが、遠祖は源義経の家臣佐藤忠信であるという口伝がある。確認できる佐藤家の初代は、市郎右衛門信久といい、1662年頃から萩藩の士となり、扶持方二人・米二石四斗を受けた。以降代々、市郎右衛門あるいは源右衛門を名乗る。曽祖父・寛作信寛は、長州藩士として御蔵元本締役、大検使役等を歴任、長沼流兵学を修め、幕末期の思想家吉田松陰に兵要録を授けた。明治になると、島根県県令、浜田県権知事等の要職に就いた。祖父・信彦は、山口県会議員を2期務め、すぐれた漢学者でもあった。父・秀助は山口県庁に奉職し、勤めを辞めてからは酒造業を始めた。なお父の実家岸家もまた田布施の士族であるがその先祖は「ガン」と称する朝鮮半島からの帰化人だったとする説がある。[1]
信孝━━信立━━信寛━┳信彦━┳松介━┳寛子(栄作夫人) ┣包武 ┣寛造 ┗正子 ┗太郎 ┣作造 ┣さわ ┗茂世 ┣━┳市郎 岸秀助 ┣信介(岸家へ養子) ┗栄作━┳龍太郎━━栄治 ┗信二
[編集] エピソード
- 小学校のころのあだ名は色が黒かったため「ごぼう」。佐藤家の坊ちゃんとして一目おかれる存在で「栄だんさま」(旦那の意)とよばれた。小鳥を追ったり、鰻とりをしたりと自然児であった。又、村人が佐藤家の者と道で会うと「お許しなさいませ」と挨拶したという。
- 地元の人たちは佐藤家の市郎・信介・栄作の兄弟について「頭は上から、度胸は下から」と評する。兄の岸信介も同じようなこと(「頭は上から、政治力は下から」)と述べている。
- 高等学校受験の際、名古屋の下宿で偶然に池田勇人(後に首相)と同じ宿に泊まり合わせた。池田は広島の忠海中学3人、佐藤は山口中学2人の計5人で試験場に通った。入試が終わった日5人は酒を飲み大騒ぎしてわかれた。試験には合格したが、佐藤は失敗したら南米へ行こうと思っていたという。なお佐藤と池田が友人として接近するのはお互いに政界入りしてからである。
- 佐藤は本来、癇癪もちでじっと我慢は苦手だったという。発話がドモリぎみということもあり、腹をたてると口より先に手が出ることが多かった。手が早いといっても殴ることは少なく、テーブルをたたいて怒りの言葉を発したという。
- 短気な一面については、長男の龍太郎が栄作について『「待ちの政治家」と言われましたが本来は短気なんです。我慢強くなったのは政治家になってからのことで、僕らの知っている父は短気なところが恐ろしかった。カーッとなるとお膳をひっくり返す。おふくろの鏡台を叩き割る。幼いころからそんな光景をよくみました..』と述べている。
- 首相に昇りつめてからも短気な性格が時として頭をもたげた。1972年に久野忠治が北朝鮮を訪問する際、佐藤と口論になり「除名する」と告げられ、久野が理路整然と総裁の恣意で党を除名させることはできないことを指摘すると、テーブルを引っくり返しながら「馬鹿野郎」と怒鳴りつけ、ドアを蹴飛ばして出て行ったという。
- 寛子夫人が週刊誌の対談で「私は若い頃主人に殴られたことがある」と洩らしたことから、訪米の際、米誌に「ワイフ・ビーター(妻を殴る男)」として紹介されたことがある。
- 自分より目下の者にはそれなりの礼節を求めた。東宮の侍従が予算の陳情で首相に面会を求め、皇太子の御用をかさに高圧的な態度で発言した時は、「無礼じゃないか! おれは総理大臣だぞ。」と怒鳴りつけた。
- 昭和天皇が香淳皇后との金婚式の際に昭和天皇が事前に断っていたにも関らず、黒松の盆栽を持ってきたため昭和天皇を困惑させたことがある(皇室経済法によって、皇室財産の譲渡及び取得は国会の議決が必要なため、昭和天皇は外国元首からの儀礼的なプレゼント以外は受け取らない方針をとっていた)。結局宇佐美毅宮内庁長官(当時)との協議の結果、この盆栽は佐藤に返すことになった。この他にも、佐藤は「皇后さま(香淳皇后)に反物を献上したい」と反物を献上しようとしたが、昭和天皇から断られている。昭和天皇は「佐藤は何を考えているんだろうね」と困惑していたという。これらのこともあってか昭和天皇は、次の田中内閣に対し、高価な贈り物は持ってこないよう異例の申し入れを行っている。
- 1971年10月19日の夜半、総理公邸内に一人の刺客が侵入したが、難を逃れた。
- 三木武吉は岸信介に対し「佐藤とキミは兄弟だと言うけれどちがうなぁ。キミの弟ではあるが、なかなかたいした奴だ。気に食わんとなると寝転びやがって口をきかないんだ。キミは、とにかく反対なら反対のようにちゃんと言うてくれるからいい。けれどもあいつは、いざとなるとゴロッと寝ちゃって何も口をきかない。」と述べている。
- 佐藤が無愛想な性格のため、記者たちには嫌われており、佐藤もマスコミを信頼していなかった。1972年6月の退陣表明記者会見の冒頭、「テレビカメラはどこかね?テレビカメラ。どこにNHKがいるとか、どこに何々いるとか、これをやっぱり言ってくれないと。今日はそうゆう話だった。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。残念ながら、偏向的な新聞は嫌いなんだ。大嫌いだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談かと思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。官房長官として同席していた竹下登の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、新聞記者全員が退席してがらんとした会見場で、一人テレビカメラに向かって演説した
- 無愛想な反面、面倒見のよいところもあり、竹下登の証言によれば、鉄道官僚時代には敵対していた国鉄労組OBの引退後の生活を心配し、折に触れては何くれとなく世話を焼いていたという。人並み以上の義侠心や涙もろさ、あるいは義理人情の厚さといった日本的美徳の持ち主だが公式の政治の舞台でこれらが表にでることはなかった。
- 堂々たる雰囲気をそなえた美男子であり、政界の団十郎といわれた。佐々淳行は著書のなかで、「団十郎ばりの巨眼で(佐藤に)睨みつけられたという秘書官がいた。」と記述している。
- 佐藤栄作日記では総理在任中も政治家や官僚に対する好悪の情をはっきり書いており、好き嫌いの激しい人間であったことが伺い知れる。好まれた1人に宮澤喜一がおり、宮澤の知性を佐藤が評価したためといわれる。
- 政敵河野一郎の葬儀の帰途、車内で夫人や側近に「これで悪いやつは全部死んだ」と発言したといい、冷酷な一面を覗かせた。
- 大野伴睦を偲ぶ会に出席し「“伴ちゃん”、“伴ちゃん”とみんなから愛された故人にならい私も“栄ちゃん”と呼ばれたい」と述べた。但しこれは本心からの発言ではない。佐藤と大野は犬猿の仲で知られ、佐藤は大野には庶民性しか褒めるところがないからそう言ったのだと回想している。(これを受けてか横山ノックが佐藤に“栄ちゃん”と呼びかけたことがあるが、これに対して佐藤は非常に不快そうな表情を浮かべたとされる。青島幸男も"栄ちゃん"と呼んだとされるが横山の方が周知されている。)
- 仮面を被り続けた佐藤は、「栄ちゃんのバラード」という反戦フォークソングから四代目柳家つばめの「佐藤栄作の正体」に至るまで格好の標的であり続けたが、これに対して寛容な態度をとれない不器用な人物でもあった。
- 1974年に、ショーン・マクブライド(アイルランド)と共にノーベル平和賞受賞。非核三原則の制定が評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一のロビー活動が寄与したといわれている(佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表明している)。しかし、2000年代に入ってからノーベル財団はこの受賞について厳しい評価を表明した。
- 1995年、アフリカのガンビア共和国からノーベル平和賞の受賞者として切手が発行されたが、誤ってBisaku Satoと表記されてしまった。EisakuのEをBと間違えられたのである。
- 内藤陽介2003『外国切手に描かれた日本』光文社
- 台湾の國立故宮博物院には、佐藤栄作と夫人が寄贈した唐三彩の「三彩天王増長天像」が展示され、「元日本國首相佐藤榮作氏及令夫人寄贈」と記されている。
- 劇団東京ヴォードヴィルショーの主宰者で俳優の佐藤B作は、自らの芸名を佐藤栄作にちなんで決めた。両者間に血縁・縁戚関係はもちろんない。なお、劇団設立は佐藤栄作が総理大臣を退任した後の1973年である。
[編集] 参考文献
- 岩川隆 『忍魁・佐藤栄作研究』 徳間書店 1984年
- 山田栄三 『正伝 佐藤栄作(上)』、『正伝 佐藤栄作(下)』 新潮社 1988年
- 神一行 『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』 角川書店 2002年 61-75貢
- 秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会 2002年 247貢
- 佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』 朝日新聞社
[編集] 関連メモ
- 「岸信介・佐藤栄作兄弟宰相の遺品展示室」
- 岸信介、佐藤栄作兄弟の出身地、山口県の田布施町郷土館内に設置。国連平和賞、ノーベル平和賞などの、遺品や関連文書を展示し、両元首相を顕彰している。
- 田布施町郷土館
- 所在地:〒742-1511 山口県熊毛郡田布施町大字下田布施875番地6
- 電話:0820(52) 2620
- FAX:0820(52) 4904(田布施町教育委員会)
- http://www4.ocn.ne.jp/~tabuse/sisetsu/gaiyou1-1.html
[編集] 関連人物
[編集] 関連項目
[編集] 脚注
- ^ 山田栄三の『正伝 佐藤栄作(上)』(1988年)、岩川隆の『忍魁・佐藤栄作研究』(1984年)より
[編集] 外部リンク
内閣総理大臣 | ||
第60代 池田勇人 |
第61・62・63代 1964-1972 |
第64代 田中角栄 |
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