杵築藩
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杵築藩(木付藩 きつきはん)は、豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。藩庁は杵築城(大分県杵築市)。
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[編集] 略史
江戸時代初頭、木付と呼ばれたこの地は中津藩(のち小倉藩)39万9千石を統治する細川忠興の領地の一部であった。元来、この地は大友氏の一族である木付氏が領していた。しかし、文禄2年(1593年)大友義統が豊臣秀吉の勘気に触れ除封となると木付氏も同時に滅びた。後に、杉原長房、早川長政が入封し、次いで細川忠興が慶長4年(1599年)丹後国宮津12万石に加えこの地(6万石)を領有し、松井康之、有吉立行などを杵築城代として統治させた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの戦功により、豊前一国を加増された忠興は本拠を中津城に定め、のち小倉城に移った。寛永9年(1632年)忠興の子忠利は熊本藩に転封となった。旧細川領は分割され、同年、木付の地には旗本の小笠原忠知が4万石の大名に取り立てられ入封。木付藩が成立した。正保2年(1645年)忠知は三河国吉田藩に転封となった。
代わって、松平英親が3万2千石にて豊後国高田藩より移封となり明治維新までこの地を領した。平地の少ない領地であったため、新田開発や工芸作物、特に藺草の栽培を奨励した。新田開発においては三河より100余人の農民を呼び俗に「三河新田」と呼ばれる農地を開墾した。
3代重休の正徳2年(1711年)幕府より与えられた朱印状に「杵築」と記されていた。以来、この地を杵築と表記するようになった。
享保の大飢饉以後、藩財政は悪化し、8代親賢は領内在住の学者・三浦梅園を登用し財政再建に取り組んだ。彼の進言により天明年間(1781年~1789年)に藩校「学習館」を開いた。
明治4年(1871年)廃藩置県により杵築県となった。のち、大分県に編入された。
明治17年(1884年)松平家は子爵となり華族に列した。
[編集] 歴代藩主
[編集] 小笠原(おがさわら)家
譜代 40,000石 (1632年~1645年)
- 忠知(ただとも)〔従五位下、壱岐守〕
[編集] 松平(まつだいら)〔能見(のみ)〕家
譜代 32,000石 (1645年~1871年)
- 英親(ひでちか)〔従五位下、市正〕
- 重栄(しげよし)〔従五位下、日向守 寺社奉行〕
- 重休(しげやす)〔従五位下、豊前守〕
- 親純(ちかずみ)〔従五位下、東市正〕
- 親盈(ちかみつ)〔従五位下、市正〕
- 親貞(ちかさだ)〔従五位下、筑後守〕
- 親賢(ちかかた)〔従五位下、駿河守〕
- 親明(ちかあきら)〔従五位下、備中守 奏者番〕
- 親良(ちかよし)〔従五位下、河内守 寺社奉行〕
- 親貴(ちかたか)〔従五位下、河内守〕
[編集] 豊後高田藩
高田藩(たかだはん)は、杵築藩入封前の松平氏が領していた藩。藩庁は高田城(大分県豊後高田市)。
摂津国三田藩より松平重直が寛永9年(1632年)、3万7千石にて豊前国竜王(大分県宇佐市安心院町)に入封したことに始まる。当初は竜王藩(りゅうおうはん)と称していた。寛永16年(1639年)高田に城を構え居城としたことにより、高田藩となった。
2代英親は弟の重長に3千石、直政に2千石を分与し、表高は3万2千石となった。正保2年(1645年)英親は杵築に移封となったため廃藩となった。
[編集] 歴代藩主
- 松平(まつだいら)〔能見(のみ)〕家
譜代 37,000石→32,000石
- 重直(しげなお)〔従五位下、丹後守〕
- 英親(ひでちか)〔従五位下、市正〕分与により32,000石