松平忠恕 (小幡藩主)
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松平 忠恕(まつだいら ただゆき)は、上野小幡藩の第4代(最後)の藩主。
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時代 | 江戸時代末期(幕末)、明治時代 | |||
生誕 | 文政8年8月7日(1825年9月19日) | |||
死没 | 明治35年(1902年)5月21日 | |||
別名 | 鱗三郎(幼名)、松平忠慎(別名) | |||
戒名 | 荘厳院忠恕慈謙 | |||
官位 | 従三位、大蔵少輔、摂津守 | |||
藩 | 上野小幡藩 | |||
氏族 | 奥平松平家 | |||
父母 | 父:松平忠恵、母:蜂須賀重喜の七女・定姫 | |||
兄弟 | 松平忠恕、松平忠孝 | |||
妻 | 正室:井上正春の娘 継室:宮崎佐兵衛の長女・園子 |
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子 | 3男1女(松平忠禎) |
文政8年(1825年)8月7日、第3代藩主・忠恵の長男として生まれた。安政3年(1856年)6月27日、父が老齢を理由に隠居したため、後を継ぎ、安政5年(1858年)10月に叙任する。そして幕末の動乱の中で寺社奉行と奏者番を兼任したが、どうも忠恕は幕府の将来に早くから見切りをつけていた一面があり、文久2年(1862年)に父が死去して藩の実権を完全に掌握すると、幕府に反抗的な水戸藩浪士を取り締まる一方で、人質として江戸にあった妻子を本国に戻して朝廷と通じる一面も見せている。また、軍備増強にも乗り出して、猟師に名字帯刀などの特権を与える代わりに軍人として用いて強力な鉄砲隊を編成したりしている。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府に与したが、同年2月に領内で起こった世直し一揆で大被害を受けている。
明治2年(1869年)6月22日の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官となる。明治6年(1873年)には日光宮子となり、後に子爵、東京府学務委員、貴族院議員にもなった。明治35年(1902年)5月21日に死去。享年78。墓所:東京都墨田区向島の弘福寺。
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