井上正春
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井上 正春(いのうえ まさはる、文化3年10月5日(1805年11月25日) - 弘化4年2月12日(1847年3月28日))は、江戸時代末期の棚倉藩主、ついで館林藩主、更に浜松藩主。老中。官職は従四位下侍従・河内守。父は元奏者番井上正甫。正室は阿部正精の娘、継室は松平忠学の娘、秋田孝季の娘。子に正直、正信、水野忠精室、松平忠恕室、脇坂安斐室、前田利平室らがいる。
[編集] 浜松への復帰
文化3年(1805年)10月5日生まれ。井上氏は久しく浜松を領有していたが、父・正甫が狩りの途中で農民の妻に暴行を働いた事が幕府に発覚、奏者番を辞めさせられた上に悪地で知られる陸奥棚倉に左遷されていた(詳しくは浜松城で解説)。正春はそんな中、藩主を継いだわけであるが、幕府においては寺社奉行、大坂城代を手堅く務め、徐々に栄転してゆく。
すなわち、天保7年(1836年)仙石騒動で老中松平康任が石州浜田から棚倉に左遷されると、ところてん式に押し出されて上州館林に入り、更に弘化2年(1845年)、老中水野忠邦が天保の改革に失敗して浜松から出羽山形に左遷されると、その後釜として、実に28年ぶりに井上氏が浜松に復帰するのである。
[編集] 浜松藩主として
ところで、館林から浜松への復帰は意外な副産物を浜松領民にもたらした。館林は関東における繊維流通の代表的な地域で、後年井上氏が浜松藩に復帰すると浜松の名産・遠州木綿に先進地館林の機織技術が加わり、笠井綿(加西綿)として飛躍的な発展を遂げたのである。浜松木綿だけではなく、綿糸を利用した浜松織物の生産も順調に拡大した。また、藩校克明館も設置し、藩士の教育にも力を注いだ。墓所:東京都文京区向丘の浄心寺。
[編集] 経歴
- 1805年(文化3年)10月5日、生誕
- 1820年(文政3年)陸奥棚倉藩襲封
- 1834年(天保5年)奏者番兼寺社奉行
- 1836年(天保7年)上野館林藩に転封
- 1838年(天保9年)大坂城代
- 1840年(天保11年)老中
- 1843年(天保13年)辞任
- 1845年(弘化2年)遠江浜松藩に転封
- 1847年(弘化4年)死去
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