松平斉民
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生誕 | 文化11年7月29日(1814年9月12日) | |||
死没 | 明治24年(1891年)3月23日 | |||
別名 | 銀之助(幼名)確堂(号) | |||
官位 | 正三位、越後守、三河守、左近衛権中将 | |||
藩 | 美作津山藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:徳川家斉、母:皆春院 養父:松平斉孝 | |||
兄弟 | 家慶、敦之助、斉順、斉明、斉荘、斉民、 斉温、斉彊、斉善、斉裕、斉宣、他多数 |
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妻 | 正室:松平斉孝の娘
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子 | 斉、康倫、康民、娘(三浦義次婚約者)
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松平 斉民(まつだいら なりたみ)は、江戸時代末期の大名。美作国津山藩の第8代藩主。実父は江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉(斉民は第16子)。母は家斉の側室で牧野忠克の娘・八重(皆春院)。養父は第7代藩主・松平斉孝。
[編集] 経歴
文化11年(1814年)7月29日生まれ。幼名は銀之助。文化14年(1817年)、斉孝の強い要望によりその養嗣子となる。天保2年(1831年)11月22日、斉孝の隠居により家督を継いだ。藩主時代には藩政改革での財政再建や教育の普及などに力を注いだ。安政2年(1855年)5月3日、家督を先代斉孝の四男である松平慶倫に譲って隠居したが、幕府は隠居した斉民に対して毎年、一万俵もの隠居料を送っていたと言われている。これは、斉民が家斉の子であると言うこともあるが、彼は誠実だったため、将軍家の中でも人望が厚かったためとも言われている。
安政5年(1858年)、第13代将軍・徳川家定の後継者をめぐっての争いが起こると、徳川家茂(南紀派)や徳川慶喜(一橋派)らの他に、一部で斉民を次期将軍に推そうとする動きがあった。しかし、この派閥は南紀派や一橋派に較べると脆弱だったため、斉民が将軍に選ばれることは無かった。
明治維新後、斉民は徳川家達(当時は田安亀之助)の後見人となり、その養育に尽力した。また、徳川氏の財政管理など、徳川氏の様々な出来事を決裁したため、周囲からは密かに「第16代様」と呼ばれたとも言われている。第15代将軍・徳川慶喜も娘の養育を斉民に任せているほどである。慶喜が斉民を信頼していた例の一つに、「縁談先を決めるときは、絶対に斉民と相談すべし」という手紙が残されている。
明治24年(1891年)3月23日、78歳で死去。法号:文定。墓所:東京都台東区の谷中墓地。 嫡男は男爵松平斉。
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