松平近説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
松平 近説(まつだいら ちかよし、文政11年12月5日(1829年1月10日) - 明治19年(1886年)11月18日)は、豊後国府内藩の第10代藩主。伊勢国桑名藩主松平定永の11男。正室は松平乗全の娘、継室は太田資師の娘。
14歳で急遽藩主となったため、当初は8代藩主の近訓(隠居して閑山と称す)が後見役となった。その7年後から政務を司るようになり、藩校遊焉館や医学館(稽全館)を設置するなど、とくに学問の奨励に尽力した。
第2次長州征伐では小倉に出兵したものの、大政奉還後には国元で勤王派の藩主代理(増沢虎之丞)が立てられ、幕府の要職にあった近説は裏切られる形となった。
やがて近説も慶応4年(1868年)2月6日に若年寄を辞職し、松平姓を大給に改め、朝廷へ恭順の意を表した。版籍奉還後は府内藩知事に任命されたが、廃藩置県直前に東京移転を命じられ、廃藩とともに知事職も解任された。院号は心寛院。東京都文京区小石川の伝通院に葬られる。
|
|
|