松本幸四郎 (7代目)
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7代目松本幸四郎(しちだいめ まつもと こうしろう、明治3年(1870年) - 昭和24年(1949年)1月28日)は、歌舞伎役者。本名、藤間 金太郎。舞踊名、3代目藤間勘右衛門・藤間勘斎。屋号は高麗屋。俳名は錦升、琴松、紫香。
三重県四日市市の武士の家の出。3歳で振付師2代目藤間勘右衛門の養子となる。明治13年(1880年)、9代目市川團十郎門人となり、市川金太郎。翌明治14年(1881年)4月、東京春木座において「近江源氏先陣館・盛綱陣屋」の小四郎が初舞台。明治22年(1889年)3月、新富座で4代目市川染五郎を襲名。明治35年(1902年)5月、歌舞伎座で8代目市川高麗蔵を、師匠の口上で襲名。團菊を次ぐ新世代の有望株として満都の注目を浴びる。明治44年(1911年)11月、帝国劇場で7代目松本幸四郎を襲名。
帝国劇場を拠点に活躍し、新作や外国の翻訳劇、オペラ「露営の夢」の上演を試みるなど活躍。のち松竹に所属する。恵まれた容貌、堂々たる口跡に裏打ちされた風格ある舞台で、時代物、荒事に本領を発揮した。又、舞踊にも秀で藤間流の家元として活躍した。
『勧進帳』の武蔵坊弁慶は、師匠譲りの絶品として生涯に約1600回演じた。昭和18年(1943年)、歌舞伎座で幸四郎の弁慶に、6代目尾上菊五郎の義経、15代目市村羽左衛門の富樫で演じた『勧進帳』は記録映画に残されている。「誰がどの件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ。」(岡鬼太郎)と評されるほどの、近代随一の弁慶役者であった。ほか、『大森彦七』や『矢の根』の五郎、『暫』の鎌倉権五郎、『菅原伝授手習鑑・車引』の梅王、『源平魁躑躅・扇屋熊谷』の熊谷次郎直実、『博多小女郎波枕』の毛剃、舞踊では『関の扉』の大伴黒主、『茨木』の渡辺綱、『素襖落』などが当り役である。
晩年も積極的に舞台に出演し、昭和21年(1946年)には『勧進帳』を演じ(最後の上演)、翌昭和22年(1947年)には、GHQのパワーズの肝いりによる『仮名手本忠臣蔵』通しに出演した。昭和24年(1949年)1月27日、振付師の藤間良輔が、市川寿海の名代として『助六』の振り付けの段取りを稽古しにきたとき、体調を崩していた幸四郎は、「聞いて分かるものじゃない。なまじっかなものを伝えては済まないから」と、下駄をはいて踊り、翌日死去した。壮絶な最期であった。
温厚な人格で、
「どんな役でも持って来られたら私は快く出る。人は高麗屋はなんだってあんな役にまで出るのだろう?あんな役はことわればいいとごひいき筋でも言ってくださるが、出てくださいと言われることは、仲間(一座の俳優達)にきらわれていない証拠ですよ。『私の演し物の幕に幸四郎(こうらいや)はださないように』と言われるようになっちゃおしまいだ。私のような者でも出て欲しいと頼まれることは、ありがたいことだと思うの・・・」
(13代目片岡仁左衛門 『仁左衛門楽我記』より)という言葉が残されている。