松永英機
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松永 英機(まつなが ひでき、1963年2月8日 - )は、静岡県藤枝市出身の元サッカー選手で、サッカー指導者。
大阪商業大学サッカー部時代は全日本学生選手権2連覇など、輝かしい実績を残す。卒業後は松下電器産業サッカー部(現在のガンバ大阪)プレーした。
引退後は松下・G大阪・V川崎で指導者経験を積む。またこの間、日本サッカー協会の強化委員スタッフに加わり、アトランタ五輪ではスカウティングスタッフとして対戦相手チームを分析。マイアミの奇跡と呼ばれるブラジル戦での勝利に貢献した。
1999年にはヴェルディ川崎で初めてJリーグチームの監督を務める(ただし実質的な指揮は総監督の李国秀が執っていた。これは翌年の張外龍監督のときも同じである)。辞任後は清水エスパルスのコーチを務めた。
2003年に大木武の後を受けてヴァンフォーレ甲府の監督に就任。資金も戦力も決して豊富とは言えない甲府で2年続けてJ1昇格争いを繰り広げた。甲府は2005年に再度就任した大木監督の下でJ1昇格を果たしたが、その基礎は松永が作ったといえる。
2004年限りで甲府監督は辞任し、翌年はヴィッセル神戸の監督に就任する。だが神戸は前年9月のイワン・ハシェック監督の解任後、オーナーの三木谷浩史の意向を受けてフィリップ・トルシエ、山本昌邦、ピエール・リトバルスキーなどの大物に監督のオファーを出したが全部断られ、結局リトバルスキーの下でヘッドコーチを務めることが内定していた松永が「繰り上げ」の形で就任した、というのが実情である。
2005年シーズンの第6節までで1勝3敗2分けの17位と出遅れたことを理由に解任されたが、この時点でリーグ戦が始まってまだ1ヶ月であり、松永の方針がチームに浸透していたとは言い難く、さらにJリーグ昇格後も毎年のように残留争いを繰り広げていた神戸では、第6節までのこのような成績はある程度予想されていたこともあり、早急に結果を求めようとし過ぎる三木谷の姿勢は物議を醸した(ちなみに松永の後任は「大物」のエメルソン・レオンであるが、三木谷はレオンも2ヶ月で解任している)。 松永は甲府時代がそうであったようにじっくりとチームを作っていこうというタイプであり、三木谷の考えと合わなかったのは自然なことかもしれない。
2006年には佐川印刷の監督に就任。しかし、松永の構想とチーム事情が全くフィットすることがなく前期は成績が低迷。後期は成績が上向きになってきたが、松永の構想との乖離があり8月31日に辞任を発表した。これまでの実績などを総合すれば、トップチームの監督よりもヘッドコーチや下部組織の監督など育成・基盤整備型の指導者であり、短期での結果を追求されるタイプのクラブでは概して氏の評価とは相反する結果となっていることは氏にとって不運である。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導経歴
- 松下電器:コーチ 1989-1992
- ガンバ大阪:トップ、サテライト、ユースコーチ 1993-1994
- 日本サッカー協会強化委員 1994.12-
- アトランタオリンピックプロジェクトチーム(スカウティングスタッフ) 1996
- ヴェルディ川崎:トップ、サテライトコーチ 1997
- ヴェルディ川崎:サテライト、ユースコーチ 1997.6
- ヴェルディ川崎:テクニカルグループ 1998
- ヴェルディ川崎:監督 1999
- 清水エスパルス:強化担当 2000-2001
- 清水エスパルス:サテライト監督 2002
- ヴァンフォーレ甲府:監督 2003-2004
- ヴィッセル神戸:監督 2005
- 佐川印刷:監督 2006-2006.8
- FC岐阜:コーチ 2007-
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