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川勝良一 |
名前 |
愛称 |
|
カタカナ |
カワカツ リョウイチ |
ラテン文字表記 |
KAWAKATSU Ryoichi |
基本情報 |
国籍 |
日本 |
誕生日 |
1958年4月5日 |
出身地 |
京都府 |
身長 |
179cm |
体重 |
72kg |
選手情報 |
ポジション |
MF |
代表歴 |
キャップ |
14 |
得点/失点 |
0 |
|
■Template(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
川勝 良一(かわかつ りょういち、1958年4月5日-)は、京都府出身のサッカー選手・サッカー指導者。法政大学卒業。
大学卒業後の1981年に東芝サッカー部に入部。その後、1983年に読売クラブ(現・東京ヴェルディ1969)に、さらに1990年に東京ガスサッカー部(現・FC東京)に移籍し、1991年に現役引退。1981年~1983年には日本代表も経験した。
現役引退後は古巣の東京ガス・ヴェルディ川崎で主に下部組織の指導に務め、1995年にS級ライセンスを所得。1997年にはV川崎で天皇杯のみだが初めてトップチームの監督を務めた。翌1998年にもV川崎でシーズン途中から終了まで監督を務めた後、1999年にヴィッセル神戸の監督に就任した。1999年2ndステージ・2000年1stステージでは7位に進出するなど(2006年現在も神戸のJ1最高順位である)、毎年のように下位に低迷する神戸ではかなりの実績を残したが、2002年のシーズン途中で成績不振を理由に解任された。
2003年からは母校の法政大学でコーチを務めていたが、2006年6月3日よりアビスパ福岡監督に就任した。だが、チームは低迷し16位でシーズンを終了。J1・J2入れ替え戦では奇しくも2002年の神戸解任時の後任監督であり、前任の福岡監督である松田浩が監督を務めるヴィッセル神戸と対戦し、アウェーゴールの差で敗れJ2降格が決定。勝ち残っている天皇杯を待たずに辞任する事が決まった。
V川崎時代から熱血漢として有名で、神戸時代の2000年には試合途中に選手の頭を平手で叩いたことが物議を醸した。ただ、川勝が福岡監督に就任する際、福岡所属で神戸でも川勝と一緒だった薮田光教は「熱くなってやったのだろうが、普段はそんなことをする人ではない」と川勝を擁護する発言をしている。
[編集] 選手経歴
[編集] 代表歴
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 14試合 0得点(1981-1982)
- 国際Bマッチ 1試合 0得点(1981)
- 国際Cマッチ 20試合 1得点(1980-1982)
年度 |
国際Aマッチ |
国際Bマッチ |
国際Cマッチ |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
出場 |
得点 |
1980年 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
0 |
1981年 |
11 |
0 |
1 |
0 |
11 |
0 |
1982年 |
3 |
0 |
0 |
0 |
7 |
1 |
通算 |
14 |
0 |
1 |
0 |
20 |
1 |
[編集] 指導者経歴
- 東京ガス(コーチ)1991
- ヴェルディ川崎ユース(監督)1992-1993
- ヴェルディ川崎(サテライトコーチ)1994
- ヴェルディ川崎ユース(監督)1995-1996
- ヴェルディ川崎(サテライトコーチ)1996
- ヴェルディ川崎(コーチ)1997
- ヴェルディ川崎(監督)1997.12-1998
- ヴィッセル神戸(監督)1999-2002.7
- 法政大学(コーチ)2003-2006
- アビスパ福岡(監督)2006.6-2006.12
[編集] 備考
趣味は意外にも絵を描くことで、現役時代にも練習後にイラストレーターのアシスタントをしていた。サッカー研究のため度々イタリアへ渡っているが、現地でも風景画などをよく描くとらしい。また現在使用されているFC東京のエンブレムの前作は川勝がデザインしたという。
- 先代:
- ニカノール
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- ヴェルディ川崎監督
- 1998途中-終了
|
- 次代:
- 松永英機
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- 先代:
- 松田浩
|
- アビスパ福岡監督
- 2006途中-終了
|
- 次代:
- 沖野等
|