三木谷浩史
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三木谷 浩史(みきたに ひろし、1965年3月11日 - )は、日本の実業家、楽天創業者。兵庫県明石市出身。
ライブドア前社長・堀江貴文、サイバーエージェント社長・藤田晋らとともに「5人の若手起業家」と言われ、2000年ごろから注目を集めた。
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[編集] 経歴
- 岡山県の岡山白陵中学校に在籍していたが、スパルタ教育のためノイローゼにかかり、兵庫県の本山中学校へ転校する。後にこの経験をバネにして奮起したと述懐している。
- 1983年 兵庫県立明石高等学校卒。高校時代はテニスのジュニア関西ベスト16。
- 1984年 一橋大学商学部入学。大学生時代は体育会テニス部主将。テニス部の1年先輩に漫画家の吉住渉、1年後輩に現インデックス・ホールディングス社長の小川善美がいる。花輪俊哉ゼミナール所属。クリムゾングループのクリムゾンは、一橋大学のスクールカラーである。
- 1988年 日本興業銀行に入行。同期入行の石原宏高とは今でも親友。
- 1991年 結婚、同期で初めてハーバード大学に留学。楽天のイメージカラー、クリムゾンレッドはそこのスクールカラーからの影響とされる。
- 1993年 MBA取得。
- 1995年 阪神・淡路大震災で叔父と叔母を失う。その年の11月興銀を退職、コンサルティング会社のクリムゾングループを設立。クリムゾングループで稼いだ6000万円を元手に1997年2月7日、株式会社エム・ディー・エム(現・楽天)設立。2002年にはアメリカの経済誌「フォーチュン」の若手富豪ランキング6位に選ばれる。一時は3000億円近い資産を有していた。
- 2003年「神戸に社会貢献したい」と、発足当時から赤字が続くJリーグ・ヴィッセル神戸を三木谷が主宰するクリムゾングループが買収した。
- 2004年 ライブドアに続いて、楽天がプロ野球球団の新規参入を表明。本拠地を仙台市に置くことを決め、2004年11月2日に行われたプロ野球オーナー会議の最終審査で、ライブドアとの競争に勝ち、楽天の参入が正式承認された(球団名は東北楽天ゴールデンイーグルス)。
[編集] オーナー
ヴィッセル神戸(Jリーグ、以下「神戸」)と東北楽天ゴールデンイーグルス(プロ野球、以下「東北楽天」)のオーナーを務める。不況の中での積極的なスポーツ参入は評価されているが、目先の利益にこだわり過ぎる姿勢故に、神戸ではわずか2年で5人もの監督を起用し、東北楽天では絶対的な戦力不足の中で指揮を執っていた田尾安志監督をわずか1年で解任するなど、プロスポーツクラブ経営の経験不足や長期的なビジョンの欠如、利潤偏重との批判を受ける。
2006年は東北楽天監督に野村克也が就任し、また神戸監督には初代監督であるスチュワート・バクスター(前南アフリカ代表監督)の復帰が決定した。野村は監督として南海を1回、ヤクルトを4回リーグ優勝に導いており、バクスターもサンフレッチェ広島では1994年サントリーシリーズで優勝、1996年には神戸をJリーグに昇格させた実績を持つが、2005年に招聘した元ブラジル代表監督で日本でも清水エスパルスで実績を残している名将エメルソン・レオンをわずか2ヶ月、東北楽天初代監督の田尾でさえ1年で解任したこともあり、「チームの成績が悪くなると野村やバクスターほどの実績を持つ監督でもすぐに解任されるのではないか」と不安視するファンも多い。
また、東北楽天フロントは2006年にヤクルト・鎌田祐哉、巨人・伊達昌司両投手のトレード話を受けるがこれを断っており、批判を浴びる(ただし2005年の成績を見ると鎌田は1軍出場がなく、伊達は7試合に登板したもののいずれも開幕直後であり、仮に東北楽天に移籍したとしても大して戦力にはならないと思われたのではないかという見方もある)。
[編集] 東北楽天ゴールデンイーグルス
エース・岩隈久志と選手会長・礒部公一という、2004年の近鉄を支えた2人こそ入団したものの、近鉄とオリックスのプロテクトから外れた選手が中心で、開幕前には「100敗するのは確実」と言われた東北楽天だったが、苦しみながらも何とか100敗は免れた。しかしチーム強化の方針に対する意見の相違から9月25日の試合前、田尾に解任を通告。
これに対し東北楽天ファンは「最初から今年は駄目なことは分かっていたはずなのにひどい」と三木谷をはじめとする東北楽天フロントを批判、地元仙台では田尾続投の署名が行われる騒動となった。また、田尾就任が発表される前に東北楽天監督就任が噂された掛布雅之に至っては、玩具同然の扱いをされた挙句に東北楽天から裏切られたことを加藤博一によって暴露されている。一部の楽天関係者は「(田尾解任なんて)10日で忘れますよ」というファンを軽視したような問題発言をしたと言われている(この発言は朝日新聞のコラムなどにも取り上げられた)。
また利益優先で球団を運営していることでも有名で、公開練習を行う際に見学料金として500円を徴収していた(ただしファンクラブ会員は無料で見学できた)。田尾が「みっともないからやめてくれ」と発言したことにより、6月23日の練習からは一般客はメールアドレスを登録すれば無料ということになった。ただしパソコンのメールアドレスを持っていない客からは依然料金を徴収している。なお、11月に東北6県で分散開催されたファン感謝デーでも一般客から1,000円を徴収しており(ファンクラブ会員は無料)、ファンから「長期的展望に欠け、木を見て森を見ずだ」との批判があがった。
ネット中継も2005年度は有料だった。2006年度の初め頃は無料で見ることが出来たが、その後、楽天の会員登録(無料)をしないと見ることができなくなった。
「地域密着」を掲げているにも拘らずユニフォームや球団旗にフランチャイズ名の表記が一切入っていないことがよく指摘されている。また、田尾が「ユニフォームに『楽天』という企業名を入れないで欲しい」と三木谷に頼んだのにも拘らず、後日渡されたユニフォームには『RAKUTEN』という文字がプリントされていた(プロ野球チームは子会社であり、それによって世間に名前が知られるので、確かに企業としては当然の選択のようにも見える。ただし田尾が告げたのは、「ホームユニフォームに企業名は入れないで欲しい」という意味であったと言われている。楽天は、他チームでは企業名を入れていないホームユニフォームにも企業名が入っている)というエピソードもある。
なお中高年の中には、楽天のことを「天ぷら屋」と勘違いしている人もいた。
[編集] ヴィッセル神戸
阪神淡路大震災によってダイエーが経営から全面撤退し、苦しい経営状態が続いていた神戸がクラブ存続の危機に立っていた2004年には、地元出身ということもあってクラブ経営に参入、神戸からプロサッカークラブが消滅するという危機は回避された。いきなりトルコ代表FWイルハン・マンスズを鳴り物入りで獲得し話題を集めたが、膝に古傷を抱えコンディションの整わなかった彼は、実力を発揮することなく3試合に出場しただけでチームを去る。また、監督にはイワン・ハシェックを迎えたが、2ndステージ第7節のジュビロ磐田戦後に成績不振によって解任(後任は加藤寛)。このときは監督交代後5勝1分2敗と成績が上向いたことによりJ2降格を免れたが、これが翌年の監督人事迷走の布石となる。
2005年、加藤に代わる新監督候補として、アテネ五輪代表監督だった山本昌邦、2002年W杯時に日本代表の指揮を執ったフィリップ・トルシエ、横浜FC監督のピエール・リトバルスキーなどのビッグネームに次々と監督就任のオファーを出すが不調に終わり(山本は磐田、トルシエはフランス・マルセイユ、リトバルスキーはオーストラリア・シドニーFC監督に就任)、結果的にチーム作りが大幅に遅れるなど迷走。急遽監督に就任した松永英機は、開幕2戦を1勝1分と上々のスタートを切るが、その後第6節のサンフレッチェ広島戦後に早くも解任。松永はじっくりとチームを作り上げるタイプの監督だっただけに、「解任があまりにも早すぎる」という意見も聞かれた。その後、数億とも言われる契約金をはたいて招聘した後任の元ブラジル代表監督エメルソン・レオンも、三木谷を始めとする首脳陣との意見の衝突によりわずか2ヶ月弱で解任(後任はパベル・ジェハーク)。人事迷走はここに極まった。結局その後も神戸は息を吹き返すことなく、Jリーグ史上最速でJ2降格が決定した。
さらに、創設以来のクラブカラーだった白と黒のストライプをクリムゾンレッド(楽天のコーポレートカラー)に変更するなど、サポーターとの摩擦も起き、「チームの私物化」との批判を受けた。J2陥落決定後のホーム最終戦では三木谷自らサポーターの前で涙の謝罪を行うが、サポーターからはブーイングが起きるなど、まだまだしこりが残っていることを印象付けた。また、クラブカラー変更の際に、エンブレムからは地域名をあらわす「KOBE」の文字を削除したが、これはJリーグが掲げている「地域密着」の理念から逸脱しているという批判もある。
[編集] その他
- 週刊プレイボーイで「ひとり負けオーナー三木谷よ、スポーツ界から去ってくれ!」と題した特集記事が掲載されたことがある。
- 神戸と同時にJ2に降格した東京ヴェルディ1969は過去に楽天のロゴを入れたユニフォームを使用していたことがある。