植垣康博
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植垣 康博(うえがき やすひろ、1949年1月 - )は、連合赤軍の元活動家。
[編集] 略歴
- 1949年、静岡県に生まれる。
- 1967年、弘前大学理学部物理学科に入学。のちに退学。
- 1971年代に赤軍派として坂東隊に入り、山崎順らと共に「M作戦」と呼ばれる一連の金融機関強盗を行った。赤軍派が京浜安保共闘と統一して連合赤軍となると、兵士のリーダー的存在になり総括、リンチ事件にも加担した。
- 1972年2月19日、食料などを買出しに行った際、軽井沢駅で逮捕された。
- 1977年9月に日本赤軍が日航機をハイジャックし、同志奪還闘争を起こしたとき、植垣康博も指名されたがこの要求を拒否した。一審、二審と懲役20年を言い渡され上告したが、1993年2月19日、最高裁も上告棄却した。1998年に出所した。その後静岡でスナックを経営。
[編集] 軽井沢駅で逮捕された理由は…
植垣は国鉄(現在はJR東日本・しなの鉄道共用)軽井沢駅で逮捕されたがされた理由はふたつある。
ひとつはにおいでわかった事。植垣は軽井沢駅のKIOSKでタバコを買ったが山岳ベースでの逃亡生活から悪臭が漂っていて(もちろん風呂に入っていない。)このにおいをかぎつけたKIOSKの中年女性売店員が軽井沢警察署の署員に通報されて結果足がついたのだ。
ふたつ目は職務質問の際長野市にない地名をしゃべった事。植垣は長野行きのEF62直流式電気機関車牽引の3両編成客車普通列車(※ 1972年頃は客車の普通列車も健在だった。)に乗り込もうとした所軽井沢署員に呼び止められた際職務質問を受けているがその際「長野市内幸町の友人宅へ行く」としゃべったが長野市には内幸町なんて地名はない。軽井沢署員は「そんな地名はないぞ。」と植垣を問い詰めたこれで逃げ切れないと感じた植垣は大立ち回りを演じたが結局、捕まったのである。
[編集] 著書
- 兵士たちの連合赤軍(彩流社)
- 連合赤軍27年目の証言(彩流社)
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