日本赤軍
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日本赤軍(にほんせきぐん、Japanese Red Army 略称JRA)は、共産主義者による新左翼系日本人による左翼ゲリラ武装組織。アメリカ合衆国国務省の対テロ調整局は、「国際テロ組織」と認定していたが、現在は解散により認定は解除されている。
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[編集] 歴史
冷戦下の1971年2月26日に、共産主義者同盟赤軍派の「国際根拠地論」に基づき、海外にも運動拠点と同盟軍を持つ必要があると判断し、赤軍派の重信房子や元京都パルチザンの奥平剛士らがパレスチナへ赴き、同地で創設した。
創設当初はアラブ赤軍、赤軍派アラブ委員会と称していたが、1974年以降、日本赤軍を正式名称とした。1970年代から1980年代にかけて、パレスチナ解放人民戦線などパレスチナの極左過激派と連携し、一連のハイジャック事件などのテロを起こした。
しかし、冷戦が終結した1980年代後半から2000年代にかけて、丸岡修、和光晴生等の中心メンバーが相次いで逮捕され、組織は壊滅状態に追い込まれた。2000年11月には最高指導者の重信房子も、潜伏していた大阪府高槻市で旅券法違反容疑で警視庁公安部によって逮捕される。2001年4月に重信房子は獄中から日本赤軍としての解散宣言を行ない解散した。
現在も全国に「シンパ」がいるとみられているが、その多くは高齢化した上、その思想が時代遅れとなったこともあり若年層のメンバーの取り込みに失敗したためにその活動は完全に先細りとなっている。
- 中東の赤軍派は、大東亜戦争に対する評価や認識については、日本国内の新左翼と比較して極端に言及が少ない。大東亜戦争に対する歴史認識には大きなズレがあったと考えられる。
- 日本の新左翼はいずれも大東亜戦争をすべて侵略と規定し、赤軍派もその例には漏れなかったが、中東へ渡った日本赤軍は、イスラム社会において日本が欧米の植民地支配に対して戦いを挑んだこと自体は「義挙」として捉えられていたことにより彼等の歴史認識も修正を余儀なくされたと推測される。
- 重信房子自身、父親が戦前の右翼のテロリストの血盟団の団員であった。
[編集] 主な事件
[編集] テルアビブ空港乱射事件
1972年5月30日、奥平剛士、安田安之、岡本公三らがイスラエルのテルアビブのロッド国際空港(現在のベン・グリオン国際空港)の旅客ターミナルをチェコ製の自動小銃Vz 58(外見が酷似している為、よく旧ソビエト連邦製のAK-47自動小銃と誤認される)と手榴弾で攻撃。民間人ら100人以上を殺傷(死者24人)。岡本公三が逮捕され、残りの2人は自殺した。
なお、この事件の首謀者たちは「日本赤軍」とは名乗っておらず、日本赤軍としての意識もないので、厳密には日本赤軍の起こした事件ではなく、日本赤軍の前史に属する事件ともいえる。
[編集] ドバイ日航機ハイジャック事件
1973年7月20日、丸岡修と4人のPFLPメンバーが、パリ発アムステルダム経由東京行きの日本航空ボーイング747型機をアムステルダム離陸後ハイジャックした。
その後、アラブ首長国連邦のドバイ国際空港、シリアのダマスカス国際空港等を経由し、リビアのベンガジ国際空港へ向かった。乗員乗客141人の解放後機体をベンガジ空港で爆破し、リビア当局に投降した後、リビア政府の庇護の元逃亡した。
[編集] ハーグ事件
1974年9月13日、西川純、奥平純三、和光晴生の3人が、拘束されたメンバーの釈放を目的にオランダ・ハーグにあるフランス、アメリカ等の大使館を占拠した。フランス政府は超法規的措置として逮捕していたメンバーを釈放した。
[編集] クアラルンプール事件
1975年8月4日、拘束されているメンバー及び、仲間に引き入れようと目をつけた新左翼活動家(主として、元は同じ共産同赤軍派だった者だが、中には他の組織の者も含まれていた)の釈放を目的に、マレーシアの首都クアラルンプールにある、アメリカとスウェーデンの大使館を占拠し、アメリカの総領事らを人質に取った。日本政府(首相:三木武夫)は要求に応じ、超法規的措置として日本赤軍への参加を拒否した2人を除く5人(日本赤軍・西川純、戸平和夫、赤軍派・坂東国男、松田久、東アジア反日武装戦線・佐々木規夫)を釈放した。
なお、連合赤軍・坂口弘は死刑が確実であるのにもかかわらず、同志殺しへの反省からか釈放を拒否した。
[編集] ダッカ日航機ハイジャック事件
1977年9月28日に、インドのボンベイ空港を離陸直後の日本航空のDC-8型機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ国際空港に強制着陸させた。福田赳夫首相は要求(クアラルンプール事件と同じような内容)に応じ、「超法規的措置」として拘束中のメンバーら6人(日本赤軍・奥平純三、東アジア反日武装戦線・大道寺あや子と浴田由起子、赤軍派・城崎勉、獄中組合・泉水博、仁平映)を解放し、600万ドルの身代金を支払った。
釈放されたメンバーはダッカ国際空港で日本赤軍と合流し、シリアのダマスカス空港で給油した後、アルジェリアのダニエル空港で人質を解放した。日本政府がSATを設置する要因となった事件。
[編集] ジャカルタ事件
1986年5月14日に、ジャカルタのアメリカ大使館にロケット弾が発射された。その後発射元のホテルから城崎勉の指紋が採取されたと地元警察から発表された。
[編集] 三井物産支店長誘拐事件
1986年11月15日午後3時頃、三井物産マニラ支店長の若王子信行が、ゴルフ帰りにフィリピン共産党の軍事組織、新人民軍(NPA)のメンバー5人に誘拐された。1987年1月16日、三井物産本社や報道各社に脅迫状や写真、テープが届いた。写真は、誘拐された支店長が虐待を受けているように見え、テープには弱々しい声が吹き込まれていた。
その後、数回脅迫状が届き、同年3月31日の夜にケソン市内の教会脇で解放された。解放された被害者に怪我はなく、写真やテープは犯人の偽装であることが解った。このことから、この事件は身代金目的の誘拐事件と見られている(NPA中央の声明によると、末端のメンバーが勝手に行ったことで、人質と引き換えに1000万ドルの身代金が支払われたとのこと)。
1991年に逮捕された犯人達は、「日本赤軍の協力があった」旨の供述をしている。(主にフィリピン国外で行われたとみられる身代金の受け取りに協力したと考えられている)。
[編集] ローマ事件
1987年6月9日。ベネチアサミット開催中、ローマのアメリカとイギリス大使館にロケット弾が発射された他、カナダ大使館で車が爆破され、「反帝国主義国際旅団」名で声明が出される。イタリア公安当局は奥平純三の犯行と発表。
[編集] ナポリ事件
1988年4月、イタリア・ナポリのナイトクラブ前に駐車していた車が爆破され、民間人とアメリカ空軍兵士ら5人が死亡した。日本赤軍自身はこの事件の犯行を否定している。
[編集] 板橋事件
2005年1月、元メンバーの山本万里子が、東京都板橋区内のスーパーマーケットでサキイカ2点、1200円相当を万引きし取り押さえられ、窃盗罪で逮捕された事件。この事件によって、元日本赤軍のメンバーでありながら、唾棄しているはずの日本政府より生活保護を受けていたことが明るみとなり、日本赤軍の零落を象徴する事件といわれる。なお、この事件で逮捕された山本は逮捕当時、別件(有印私文書偽造・同行使罪)で執行猶予中であった。