椎名裁定
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椎名裁定(しいなさいてい)は自由民主党副総裁の椎名悦三郎が次期総裁に三木武夫を指名したこと。
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[編集] 概要
事の発端は1974年の参議院選挙で自民党の敗北や立花隆による田中角栄内閣総理大臣の金脈問題のスクープなどによって、田中角栄が首相退陣表明をしたことから始まる。
田中の後継総裁選出をめぐっては難航を極めた。総裁候補として大きく注目されていたのは大平正芳と福田赳夫であった。だが、総裁公選を強行すれば田中・大平派が押す大平が有利だが福田派の激突が予想され、総裁公選で多くの金が飛び交うことが予想された。一方、話し合いで後継選出をすれば、親・福田の傾向の強い最高顧問会議がリードして数で勝るため大角連合の反発が必至であった。そのため、自民党は最悪のケースとして分裂も予想されていた。
そうした中で中間派の領袖で党改革の推進論者かつ副総裁の椎名に、後継総裁選出を裁定する機会が訪れた。一時は椎名首相による暫定政権構想が浮上し、椎名もそれを否定しなかったことから、大平は「行司がマワシを締めた」「産婆が自分もお産をすると言い出した」と批判した。このことは椎名の権威を失墜させ、調整や裁定を不可能にして、公選に持ち込もうとしたことによる。ただ、その後も椎名は総裁決定での権威を失うことなく、調整しようと試みた。
1974年11月30日、自民党本部で派閥実力者との会合において椎名は自らを総裁候補から除外する旨を伝え、総裁候補を大平、福田、三木武夫、中曽根康弘の四人とした。協議は政策論議から党改革まで及び、そして、椎名は派閥を超えた閣僚人事、総裁派閥から幹事長を出さない(総幹分離)、党の政策立案機能強化などを合意させた。椎名は「今夜もう一晩真剣に考えて。私なりの結論を出したい」と述べて、会合を閉じた。
翌日の12月1日、椎名は自民党本部の総裁室に福田、大平、中曽根を呼び、「すでに議論は出尽くした」と裁定文を読み上げた。
- 「私は国家、国民のために神に祈る気持ちで考え抜きました。新総裁は清廉なることはもちろん、党の体質改善、近代化に取り組む人でなければなりません。国民はわが党が派閥抗争をやめ、近代政党への脱皮について研鑽と努力をおこたらざる情熱を持つ人を待望していると確信します。このような認識から、私は新総裁には、この際、政界の長老である三木武夫君が最も適任であると確信し、ここに御推挙申し上げます」
これにより「椎名裁定」が下った。椎名とすれば、福田を推せば大角連合が離反する。かといって大平を推せば福田は脱党も辞さない。政局は混迷すると考えた。中曽根は若く(当時56歳)将来があるとし、党近代化を唱えてきた三木を推挙した。裁定を受けた三木は「青天の霹靂だ」とつぶやいた。当時、三木は少数派閥に過ぎず、この裁定は世間に大きな驚きを与えた。
この裁定に難色を示す大物議員もいたが、やがて椎名裁定に同意するようになり、一番難色を示していた大平が同意する旨を返事したことにより、三木首相実現への障害はなくなった。三木は12月4日に自由民主党総裁に選任され、12月9日に内閣総理大臣に就任した。
[編集] 裁定文に関して
裁定の前日である11月30日の夜に、椎名は三木を総裁に選出する裁定を旨を三木側近の新聞記者である藤田義郎に伝え、裁定文の草案を書くよう連絡が入っていた。藤田はそのことを三木に伝えると、三木は自分で書くと言い出したが、三木は興奮しすぎて書くことができなかった。裁定文の草案は藤田が殆ど書き上げたが、三木は「新総裁には、この際、三木武夫君がもっとも適任」という文の「三木武夫」の上に「政界最長老」という語句を加えるように注文をつけた。
その後、藤田が椎名に裁定文の草案文を渡し、椎名はさらに文案を練り直す。そして、「政界最長老」の文字に気づいた椎名は「最長老」の「最」の文字を削った。三木は1937年初当選だったが、当時の国会議員には1930年初当選の船田中がおり、三木は政界最長老ではないためとされている。
[編集] 関連書籍
- 藤田義郎「椎名裁定」サンケイ出版