自由民主党幹事長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自由民主党幹事長(じゆうみんしゅとうかんじちょう)とは、自由民主党の党務を掌握する役員職。
目次 |
[編集] 概説
自由民主党の党三役の一つであり、事実上党総裁に次ぐ党内ナンバー2の要職とされる。党最高責任者である党総裁は河野洋平および一時期の橋本龍太郎以外は内閣総理大臣と兼務していることから、党務全般を幹事長が握っている。
任期は1年。任期途中で辞職した場合は新任者の任期は前任者の残任期間までである。総裁が新たに選任された場合は在任期間に関わらず、幹事長の任期は終了となる。 幹事長は総務局、人事局、経理局、情報調査局、国際局などの党の組織を掌握している。また、幹事長は党の総合戦略調整機関である役員会に参加できる。
具体的には下記のようなものであるが、党として重要な任務が多いことから、自民党総裁候補者の登竜門的ポストとも位置付けられている。
[編集] 選挙の指揮
幹事長の最大の仕事は選挙を指揮し、勝利する事である。幹事長は立候補者に対する公認権を持ち、さらに党財政も管理しているため、公認と資金両面から党内において絶大な発言力を握る事になる。特に衆院選では小選挙区制が導入され、公認漏れ候補が非公認で立候補して当選することが以前の中選挙区制に比べて格段に難しくなったことにより、従来から大きかった幹事長の影響力がさらに増加したとされる。なお、具体的な選挙業務については総務局が担当する。
[編集] 国会運営、法案審議
選挙以外にも議院運営委員会、国会対策委員会などを通じて、国会運営、法案審議の指揮を行う。具体的には野党との各種交渉の指揮を行う他、連立政権を組んでいる場合、連立を組んでいる政党との窓口も幹事長が担当する。
これらに失敗すると、内閣、与党が政治運営で危機に陥ることから選挙の指揮に次ぐ重要な役割と言える(自由民主党国会対策委員会参照)。
[編集] 党務
幹事長は党務全般を管理している。そのため、自民党の財政、人事についても大きな権限を握っている。特に人事は党内の役職だけでなく、間接的に閣僚や国会の委員長ポスト、上級官僚の人事にも関与できる。
前述のように自民党のナンバー2であるので政党としての意見を発表するスポークスマンとしての役割もあり、テレビで党首級の政治家を集めて、討論を行う際も他の野党が党首が出るにも拘らず、自民党は幹事長が出演することが多い(近年は政調会長が出演することもある)。よって、国民向けにマスコミに頻繁に露出するポストとも言える。
[編集] 歴代の自由民主党幹事長
自由民主党幹事長 | |||
幹事長名 | 総裁名 | 在任期間 | 所属派閥 |
岸信介 | 鳩山 | 1955年11月-1956年12月 | 岸派 |
三木武夫 | 石橋・岸 | 1956年12月-1957年7月 | 三木・松村派 |
川島正次郎 | 岸 | 1957年7月-1959年1月 | 岸派 |
福田赳夫 | 岸 | 1959年1月-1959年6月 | 岸派 |
川島正次郎 | 岸 | 1959年6月-1960年7月 | 岸派 |
益谷秀次 | 池田 | 1960年7月-1961年7月 | 池田派 |
前尾繁三郎 | 池田 | 1961年7月-1964年7月 | 池田派 |
三木武夫 | 池田・佐藤 | 1964年7月-1965年12月 | 三木・松村派 |
田中角栄 | 佐藤 | 1965年6月-1966年12月 | 佐藤派 |
福田赳夫 | 佐藤 | 1966年12月-1968年11月 | 福田派 |
田中角栄 | 佐藤 | 1968年11月-1971年6月 | 佐藤派 |
保利茂 | 佐藤 | 1971年6月-1972年7月 | 佐藤派 |
橋本登美三郎 | 田中 | 1972年7月-1974年11月 | 田中派 |
二階堂進 | 田中 | 1974年11月-1974年12月 | 田中派 |
中曽根康弘 | 三木 | 1974年12月-1976年9月 | 中曽根派 |
内田常雄 | 三木 | 1976年9月1976年12月 | 大平派 |
大平正芳 | 福田 | 1976年12月-1978年12月 | 大平派 |
斎藤邦吉 | 大平 | 1978年12月-1979年11月 | 大平派 |
桜内義雄 | 大平・鈴木 | 1979年11月-1981年11月 | 中曽根派 |
二階堂進 | 鈴木・中曽根 | 1981年11月-1983年12月 | 田中派 |
田中六助 | 中曽根 | 1983年12月-1984年10月 | 鈴木派 |
金丸信 | 中曽根 | 1984年10月-1986年7月 | 田中派 |
竹下登 | 中曽根 | 1986年7月-1987年10月 | 田中派 |
安倍晋太郎 | 竹下 | 1987年10月-1989年6月 | 安倍派 |
橋本龍太郎 | 宇野 | 1989年6月-1989年8月 | 竹下派 |
小沢一郎 | 海部 | 1989年8月-1991年4月 | 竹下派 |
小渕恵三 | 海部 | 1991年4月-1991年10月 | 竹下派 |
綿貫民輔 | 宮澤 | 1991年10月-1992年12月 | 竹下派 |
梶山静六 | 宮澤 | 1992年12月-1993年7月 | 小渕派 |
森喜朗 | 河野 | 1993年7月-1995年8月 | 三塚派 |
三塚博 | 河野 | 1995年8月-1995年10月 | 三塚派 |
加藤紘一 | 橋本 | 1995年10月-1998年7月 | 宮澤派 |
森喜朗 | 小渕 | 1998年7月-2000年4月 | 三塚派-森派 |
野中広務 | 森 | 2000年4月-2000年12月 | 小渕派 |
古賀誠 | 森 | 2000年12月-2001年4月 | 加藤派-堀内派 |
山崎拓 | 小泉 | 2001年4月-2003年9月 | 山崎派 |
安倍晋三 | 小泉 | 2003年9月-2004年9月 | 森派 |
武部勤 | 小泉 | 2004年9月-2006年9月 | 山崎派 |
中川秀直 | 安倍 | 2006年9月- | 森派-町村派 |
※…形式上な派閥解消または派閥離脱は実質的な所属派閥を記載。
斜字体は総裁派閥出身の幹事長
[編集] 総幹分離
党務を仕切る幹事長は総裁の派閥とは異なる派閥から選任して、党内の派閥の調整を図る原則であり、1979年以降24年にわたり踏襲された。
1974年に椎名悦三郎が椎名裁定によって三木総裁を選出する際の条件として総幹分離が打ち出され、三木総裁は任期中他派閥から幹事長を指名した。また次の福田総裁は当初「大福連合」に政権の基盤を置いていたこともあり総幹分離を踏襲し盟友の大平正芳を幹事長に起用した。福田に反旗を翻して総裁の地位を奪った大平は自派の斎藤邦吉を幹事長に起用したが、総選挙大敗の責任をとり、反主流派である中曽根派の桜内義雄と交代した。40日抗争とハプニング解散の激しい党内抗争の中で、桜内幹事長が主流派・反主流派の掛け橋として抗争抑制に動いたことにより、総幹分離が政権安定に寄与するとみなされ、以降、総幹分離の原則が定着する。定着の理由には田中派が総裁を出せないにもかかわらず強力な影響力を有していたため幹事長ポストを占めつづけていったことも挙げられる。
しかし、近年派閥の影響力が低下したため、総裁派閥からの起用のデメリットや抵抗が少なくなり、選挙の顔という理由もあって小泉総裁により24年ぶりに出身派閥の安倍晋三が幹事長に起用された。その後、安倍総裁により出身派閥の中川秀直が幹事長に起用されている。
[編集] 関連書籍
- 浅川博忠『自民党幹事長というお仕事』 (亜紀書房、2002年)
- 奥島貞雄『自民党幹事長室の30年』 (中央公論新社、2002年)