宏池会
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創設者の池田勇人以来、大平正芳、鈴木善幸、宮沢喜一と四人の首相を輩出したため、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきた。
自民党内では中道勢力とされハト派議員が多く存在しているのが特徴である。国家による富の格差是正を肯定し社会保障や公共投資に積極的であるので、弱肉強食的な米国型新自由主義経済路線を進める現在主流の自民党内の新保守主義派とは対立する。
官僚出身者も多く、政策には強いが政局には弱いといわれている。
「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高崗の榭(うてな)に臥し、以って宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学者の安岡正篤が命名したものである。池田勇人の「池」の字とかけているともいわれる。
流れとしては、池田派→前尾派→大平派→鈴木派→宮沢派→加藤派。加藤の乱に伴う加藤派分裂後は、小里派→谷垣派と、堀内派→丹羽・古賀派→古賀派。
[編集] 沿革
池田は、旧自由党の吉田茂派を佐藤栄作と分ける形で派閥を形成し、池田の下には、前尾繁三郎、大平正芳、黒金泰美、鈴木善幸、宮沢喜一、小坂善太郎などの人材が結集した。また、ブレーンには下村治などが集まり政策を立案していった。離合集散を繰り返した他の自民党各派閥に比べて、各会長の下一致結束して、派閥を継続していったとされる。
その一方で、官僚出身者が多く、他の派閥に比べ、党内抗争に弱いため「公家集団」と揶揄された。
もっとも、宏池会において、常に平和裏に領袖の交代が実現したわけではなく、佐藤四選を許した前尾繁三郎に飽き足りない田中六助、田沢吉郎、塩崎潤ら若手議員は大平正芳を担いで、前尾を会長から下ろした(大平クーデター)。また、大平急逝後、鈴木善幸が宏池会代表(のち会長)・首相となるが、そのもとでは、宮沢喜一と田中六助の間に「一六戦争」と呼ばれる暗闘が繰り広げられた。宮沢喜一会長の下では、加藤紘一と河野洋平の間に主導権争いがあり(KK戦争)、河野は派閥を離脱、宮澤から加藤へ派閥の継承が決定的になると、派内の反加藤議員を結集して大勇会を結成した。
2000年11月に野党から提出された森内閣不信任案に加藤は同調。しかし、派閥全体を動かすことができずに尻つぼみに終わった(加藤の乱)。結果、加藤を支持するグループ(2年後に加藤が議員辞職に追い込まれて小里貞利が継承。その後小里が引退し、2005年9月26日の派閥総会で谷垣禎一が会長に就任)と、反加藤グループ(古賀誠を中心とする)に分裂し、互いに宏池会を名乗ることとなった。
2006年に入ると、大勇会も含めた旧宮澤派の流れを汲む三派の再結集を目指す「大宏池会」構想が具体的に表面化した。谷垣と河野グループ所属の麻生太郎が「ポスト小泉」に名乗りを上げているため、2006年9月の自民党総裁選が終了した10月頃の合同で三派幹部の認識は一致しており、「大宏池会」への流れは加速していると見られてきた。ところが、総裁候補を有しない丹羽・古賀派内部では若手議員を中心に「安倍待望論」が根強く、丹羽雄哉・古賀誠も事実上の「安倍支持」を表明、更に丹羽・古賀派のベテランである柳澤伯夫が安倍陣営の選対本部長に就任(現:厚労相)。安倍が勝利した総裁選後の人事では丹羽・古賀派からは丹羽が総務会長に就任したのに加え、4人を閣僚に送り込み、河野グループでも麻生外相が留任するなど「主流派」となったのと対照的に、谷垣派は完全に要職から外れた。さらに総裁選後は丹羽・古賀派の古賀系の議員による丹羽外しの動きが見られた。このように三派の関係や各派内部においても再び溝が生じつつあり、総裁選を過ぎたものの大宏池会構想の展望には不透明な部分も多い。
[編集] 分裂後の宏池会
宏池会分裂後の各派閥については、各項目参照。