三木武夫
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生年月日 | 1907年3月17日 |
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出生地 | 徳島県板野郡土成町 |
出身校 | 南カリフォルニア大学留学 明治大学法学部卒業 |
学位・資格 | 正二位 大勲位菊花大綬章 衆議院名誉議員 |
前職 | 衆議院議員 国務大臣(副総理) 環境庁長官 自由民主党総裁 |
世襲の有無 | 世襲ではない |
在任期間 | 1974年12月9日 - 1976年12月24日 |
選挙区 | 徳島 |
当選回数 | 衆19回 |
所属(推薦)党派 | 自由民主党 |
没年月日 | 1988年11月4日 |
三木 武夫(みき たけお、1907年3月17日 - 1988年11月4日)は、第66代内閣総理大臣を勤めた日本の政治家。位階勲等は正二位大勲位。学歴は徳島県立徳島商業高等学校を経て(なお佐藤朝泰著『閨閥』(立風書房、1981年)によると、三木は徳島中学<校>(現在の徳島県立城南高等学校)中途退学、中外商業学校(現在の兵庫県立尼崎北高等学校)卒業と記載されている)、明治大学専門部商科卒業後、アメリカ留学を経て、明治大学法学部卒業(在学中は雄弁部にて活躍)。称号は衆議院名誉議員。
なお、政治家「ヤジ将軍」の三木武吉とは縁戚関係は無い。
目次 |
[編集] 来歴
徳島県板野郡土成町吉田(現・阿波市)に農業のかたわら肥料商を営む父・三木久吉の長男としてうまれる。学生時代にはバザーの経費公開をめぐって学生スト事件を指導し放校されるなどリベラル政治家としての片鱗を見せる。 三木は戦前の帝国議会時代からの代議士であるが、軍部に対しては批判的な立場を取り、大日本帝国憲法の起草者の一人である金子堅太郎を担いで「日米同志会」を結成して対米戦争反対の論陣を張った。また、大政翼賛会にも参加しなかった。
戦後は公職追放を免れ、保守・革新の双方と一線を画した中間派政党の国民協同党では書記長を務め、日本社会党首班の片山哲内閣で初めて入閣した。その後は保守勢力との協力を進め、最終的には鳩山一郎の日本民主党を経て保守合同に参加した。
自民党結成後は石橋湛山、岸信介、池田勇人、佐藤栄作総理総裁の下で幹事長を歴任する(岸・佐藤兄弟の下では、残務整理の為、幹事長に留任した)。佐藤内閣では外務大臣の時には非核三原則が返還後の沖縄にも適用されると明言して佐藤の怒りを買い、事実上更迭される。これに対して1968年の自由民主党総裁選挙に「男は一度勝負する」という言のもとに出馬、大方の予想を反して大善戦するも敗退。2年後の同選挙にも周囲の反対に対して「私は何も恐れない。ただ大衆のみを恐れる」と述べて再出馬し、一定の票を取るが敗退している。1972年、福田赳夫と田中角栄の争う総裁選では日中国交樹立に積極的な田中を支持し田中は当選、田中内閣における副総理兼環境庁長官に就任する。しかしここで参議院選挙における自派議員の公認問題(詳しくは後藤田正晴の頁を参照)を巡り、今まで関係の良かった田中首相と大きく対立する。三木は単独で副総理を辞任する。
1974年12月田中総理の内閣総辞職で行われた党内実力者の話し合いにより、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で総裁に就任。当初は椎名自身も候補者とされ本人も色気を持ったが「行司が廻しを締めた」と囁かれるに及んで断念した。椎名は田中の復活のため、本格政権になると思われた有力候補の福田赳夫や大平正芳を回避し暫定政権の含みを持たせて三木を選んだとされる。この「椎名裁定」は三木自身が「青天の霹靂」とコメントしたほど意外性をもって受け止められた。
しかしロッキード事件に関連して三木は田中への追及姿勢を見せ、また独占禁止法改正など本格政権への志向が見えてきたため椎名が中心となり三木おろしの倒閣運動が起こる。田中派に加えて大平派、福田派、椎名派、水田派、船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。しかしこの動きは「ロッキード隠し」としてマスコミ世論の反発にあい挫折し三木政権は延命する。世論を背景とした三木はロッキード事件の全容解明を表明。事件において存在したとされる金銭授受に関連して、外為法違反の疑いでの検察による田中逮捕を許可した(法務大臣が中曾根派の稲葉修であったことも疑惑追及に資することになった)。ロッキード事件での田中の逮捕を逆指揮権発動によるものとみなした田中派からは稲葉と共に激しい攻撃の対象となった。
この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として三木おろしが再燃、反主流6派による「挙党体制確立協議会」(挙党協)が結成される。三木は内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。党内分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙をむかえ、ここで自民党は追加公認を含めて過半数を維持するものの8議席減らす。三木は責任をとり退陣する。
当選19回、議員在職51年。政界浄化・政治改革に執念を燃やしたその政治姿勢から支持者より“ダーティ田中”こと田中前首相との対比で“クリーン三木”、“議会の子”と呼ばれた。
いわゆる自由民主党の主流派とは明らかに違う政治信条を持ち、小派閥を率いて臨機応変に立ち回るその姿は、主流派からしばしばバルカン政治家という批判を浴び、派閥の共同領袖だった松村謙三との対立を生むなど、周辺との確執が何度も生じた。それでも、公職選挙法や政治資金規正法の改正案・自民党総裁選挙規定などの政治改革私案、日本型福祉社会の実現・日中や日ソ関係を含めたアジア太平洋圏構想という平和外交・自動車排ガス規制の推進など、世論の求めや時代を先取りした政策を次々に研究・提言するなど、自民党の有力者として独自の政治行動を展開しており、国民の信頼を得た。政治思想としては、概してリベラルであり、現行憲法の効用を指摘するなど、自主憲法制定が党是である自民党の中では左翼的傾向が強かった。
1975年、現職総理として戦後初めて終戦記念日に靖國神社を参拝したが、その際記者団に「内閣総理大臣としてではなく、三木個人としての参拝である」と、「私的参拝」であると明言した。終戦記念日を選んだことは遺族会や保守派の支援を得ることが狙いとされているが、この参拝が、今日まで続く総理大臣の靖国参拝をめぐる諸問題の端緒となった。なお、昭和天皇の靖国御親拝は、三木の参拝から約3ヵ月後に行われたものが最後となり、現在まで行われていない。
妻は三木睦子。森清(元総理府総務長官)と森美秀(元環境庁長官)は義理の兄弟にあたる。2004年まで参議院議員であった高橋紀世子は長女。同志の政治家に自身の内閣で官房長官を務めた井出一太郎、子飼いの政治家に河本敏夫の他に海部俊樹、鯨岡兵輔、坂本三十次、近藤鉄雄、志賀節らがいる。
なお、三木派はその後河本に引き継がれ、現在では高村正彦が率いる番町政策研究所となっているが、安全保障において積極的な高村に象徴されるように、派としてのリベラル色は薄れており、左派的な思想の持ち主である三木睦子は現在の同派とは一定の距離を画している。
徳島自動車道土成インターチェンジ北西に、銅像が立つ(画像参照)。
コックヮイ(国会)、シェンキョ(選挙)といった古風な発音を守っていた。
[編集] 1948年の幻の三木武夫内閣
後に出版された三木睦子夫人の回顧録によると、1948年10月に芦田内閣が崩壊した際にGHQ側から総理就任の打診があったが、三木は「憲政の常道」を理由にこれを断ったという。仮に三木がこれを受諾していれば、歴代最年少・41歳の総理大臣が誕生していた(歴代最年少首相は伊藤博文の44歳3ヵ月、日本国憲法下では安倍晋三の52歳)。
[編集] 経歴
- 明治大学専門部商科卒業後、アメリカ合衆国の南カリフォルニア大学に留学。
- 1937年 明治大学法学部卒、衆議院議員総選挙で初当選(30歳)。
- 1942年 翼賛選挙に非推薦で当選。
- 1947年 6月 逓信大臣 就任
- 1955年 3月 運輸大臣 就任
- 1956年 12月 自由民主党幹事長 就任
- 1957年 7月 自由民主党政務調査会長 就任
- 1958年 6月 科学技術庁長官 兼 経済企画庁長官 就任
- 1961年 7月 科学技術庁長官 就任
- 1963年 7月 自由民主党政務調査会長 就任
- 1964年 7月 自由民主党幹事長 就任
- 1965年 6月 通商産業大臣 就任
- 1966年 8月 通商産業大臣 再任
- 1966年 12月 外務大臣 就任
- 1967年 2月 外務大臣 再任
- 1967年 11月 外務大臣 再任
- 1972年 8月 国務大臣(副総理) 就任
- 1972年 12月 環境庁長官 就任
- 1973年 11月 環境庁長官 再任
- 1974年 12月 椎名裁定により、自由民主党総裁
- 1974年 12月 内閣総理大臣 就任
- 1976年 9月 自由民主党総裁 再任
- 1976年 12月 総選挙で自民党大敗、内閣総辞職
- 1988年 11月4日 心不全のため死去。81歳。告別式の際は国会議事堂へ別離の挨拶に訪れた霊柩車を、全衛視が堵列し敬礼で見送った。
[編集] 栄典
[編集] 参考文献
- 佐藤朝泰 『閨閥』 立風書房 1981年
- 三木睦子 『信なくば立たず 夫・三木武夫との50年』 講談社 1989年7月
- 三木睦子 『三木と歩いた半世紀』 東京新聞出版局 1993年3月
- 戸川猪佐武 『小説吉田学校 第4部』 学陽書房 2000年12月 ISBN 4313751246
- 國弘正雄 『操守ある保守政治家 三木武夫』 たちばな出版 2005年11月 ISBN 4813319149
[編集] 関連項目
内閣総理大臣 | ||
第65代 田中角栄 |
第66代 1974-1976 |
第67代 福田赳夫 |
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