水野錬太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水野 錬太郎(みずの れんたろう、1868年2月3日 - 1949年11月25日)は日本の官僚・政治家。内務大臣などの要職を歴任した。秋田県出身。
秋田藩藩士の家に生まれ、秋田中学(現在の秋田県立秋田高等学校)などを経て東京帝国大学(現在の東京大学)法学部を卒業し、内務省に入省。
その後、寺内正毅内閣・加藤高明内閣・清浦奎吾内閣で内務大臣を務めた。
1927年、田中義一改造内閣で高橋是清蔵相が辞任したため三土忠造文部大臣が蔵相に就任。三土の代わりに文部大臣に就任するが、久原房之助の入閣に反対して辞表を提出するが、後に「昭和天皇の慰留で辞表を撤回した」と発表し、これが「天皇の政治利用」だと非難されて大臣辞任に追い込まれた(水野文相優諚問題)。
日本で初めて著作権法を制定するなど、著作権の保護を推進した人物として著名。
平岡定太郎は大学の同級生。
|
|
|
|
|