久原房之助
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久原 房之助 (くはら ふさのすけ、1869年7月12日(明治2年旧暦6月4日)- 1965年(昭和40年)1月29日)は、戦前日本の実業家、政治家。
日立製作所創立の基盤となった久原鉱業所(日立銅山)や久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った。又、政界にも進出し、逓信大臣、立憲政友会(久原派)総裁を歴任し「政界の黒幕」と呼ばれた。
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[編集] 生涯
[編集] 青年期まで
1869年7月12日(明治2年旧暦6月4日)、久原庄三郎の四男として、現在の山口県萩市に生まれた。久原家は、網元や廻船問屋を営む素封家で、房之助が生まれた頃は、醤油醸造業を営んでいた。父の庄三郎は、藤田家から久原家に養子入りした人で、藤田伝三郎の兄に当たる。
1885年に東京商業学校(現一橋大学)を卒業し、1886年に慶応義塾に入学し、1889年に同本科を卒業する。1890年、貿易を志して森村市左衛門の森村組に入社する。しかし、叔父藤田伝三郎と結びついていた井上馨の命令で、叔父の藤田組に入る。1891年に小坂銅山に赴任する。新技術の導入により、業績を拡大して行った。
[編集] 実業家時代
1903年に藤田組を退社する。1905年に茨城県の赤沢銅山を買収し、日立銅山と改称する。1910年に日立製作所を設立し(1920年に株式会社化)、1912年に久原鉱業所(現ジャパンエナジー)を設立して社長となる。鉱山経営を足がかりにして企業を拡大して行った。こうして、造船業、肥料生産、商社、生命保険を傘下とする久原財閥を形成する。しかし、短兵急に事業を拡大したために無理が災し、大正末期に中核だった久原鉱業を義兄の鮎川義介に譲渡し、同社は日産自動車の基礎となる。
[編集] 政治家時代
昭和に入ると、政界に進出する。立憲政友会公認で旧山口一区から衆議院議員総選挙に立候補し、当選。田中義一内閣の逓信大臣、立憲政友会幹事長を歴任した。政治的には、親軍派に位置して中国大陸進出を主張し、「一代で巨万の富を築いた自分は超人である」と固く信じた。又、日本の政党を一つにし、超人である自分がその政党を率いることが日本にとって最善だと考え、「一国一党論」を唱えたが、二・二六事件に連座して一旦政界への影響力を喪失した。しかし、その後鳩山一郎に接近して影響力を回復、1939年に立憲政友会が分裂すると鳩山らに推されて総裁に就任すると「立憲政友会正統派」(久原派)と称して、中島知久平の革新派(中島派)に対抗した。総裁就任後は又もや挙国一致政党解消論を主張した。権謀術数に長け、政界の黒幕と呼ばれた。敗戦後、戦犯容疑を受けるが不起訴となった。
[編集] 第二次大戦後
公職追放解除後は、日中・日蘇友好に努めた。2回結婚しており(最初の妻が鮎川義介の妹・キヨ)、妾腹の子を含めると3男10女計13人の子に恵まれた。長女は元衆議院議長・石井光次郎に、三女は大隈重信の孫・信幸に、四女は元東京急行電鉄社長・五島昇に嫁ぎ、九女と十女は米国人と結婚している。
1965年1月29日、東京白金の自邸で死去した。享年96。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
八芳園(久原房之助邸宅跡地)
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