江戸忠通
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江戸 忠通(えど ただみち、永正5年(1508年)-永禄7年6月5日(1564年7月13日))は、戦国時代前期の常陸国の国人領主江戸氏当主。江戸通泰の子。正室は佐竹義舜の娘。子に江戸通政がいる。
佐竹義篤に従属して、部垂の乱や伊達氏の洞の乱に出兵するが、天文14年(1545年)に義篤が病死すると、佐竹氏に対して挙兵する。だが、佐竹氏を継いだ佐竹義昭に敗れて天文20年(1551年)に降伏に追い込まれた。後に許されて小田氏治と大掾慶幹の仲裁を行ったり、嫡男通政とともに宇都宮広綱救援に出陣したりしている。だが、晩年は嫡男・通政の健康問題に悩まされ、鹿島神宮に鎧兜一式を奉納して健康回復を願うが好転せず、やむなく嫡孫である宮房丸(後の重通、通政の嫡男)を後継者とするが、幼少のうちに忠通が病死してしまう。このため、やむなく、宮房丸の父である通政が家督を継承した。