江戸通房
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江戸 通房(えど みちふさ、応永17年(1410年)-寛正6年5月3日(1465年5月27日))は、室町時代中期の常陸国の国人領主江戸氏当主。江戸通景の子。子に江戸通秀・通長・通雅・小野崎通栄・枝川通弘他(ただし、通長・通雅については異説もある)。受領名は但馬守。
初めは河和田城(現在の茨城県水戸市)を本拠としていたが、応永33年(1426年)水戸城の大掾満幹が青屋祭見物で城を離れて常陸府中に向かった隙に水戸城を占拠して自らの居城とした。その後、息子・通栄を額田小野崎氏の後継者に送り込み、周辺を子弟で固める一方、守護の佐竹義人と結んだ。義人の後を巡る佐竹義俊・実定兄弟の争いに対しては山入義知とともに実定を支持し、享徳元年(1452年)に実定が常陸太田城を奪って義治から佐竹氏の家督を奪うと、実定の補佐役としてその政権を支える役目を果たす。享徳の乱では、関東管領上杉房顕に従って古河公方足利成氏と戦い、長禄3年(1459年)には、室町幕府将軍である足利義政から幕府と主君・実定への忠節を賞賛されている。
寛正6年(1465年)に死去。4ヵ月後の9月25日には実定も後を追うかのように病死し、追放された佐竹義俊が復権する事になる。