池田敬子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
女子 体操競技 | ||
銅 | 1964 | 団体総合 |
池田 敬子(いけだ けいこ、1933年(昭和8年)11月11日 - )は、元体操オリンピック選手。指導者、教育者。体操ニッポンのパイオニア。旧姓田中。広島県三原市佐木島生まれ。
[編集] 経歴
瀬戸内海三原市沖、因島の西に浮かぶ佐木島の生まれ。原爆で父を亡くす。幼いころから山や川で遊び、水泳、バレーボール、ソフトボール、いろんなスポーツをする。三原高校で本格的に体操を始め、1952年、日本体育大学の女子1期生として入学。
1954年、大学2年19歳の時、日本の女子体操競技初の海外遠征、監督もコーチもなし、男子チームのお供の形として参加したローマ世界選手権で日本女子体操史上唯一の金メダルを平均台で獲得、華やかで美しいジャンプとターンで世界の体操ファンを魅了、「ローマの恋人」と呼ばれた。
以降、女子のリーダーとして体操ニッポンの黄金時代をリード。日体大に教員として残り1956年メルボルンオリンピック大会で床4位、団体6位、1958年モスクワ世界選手権、床で銅メダル、 1960年ローマオリンピックで個人総合6位、段違い平行棒・平均台5位、団体4位。1962年プラハ世界選手権、平均台銅メダル。この間結婚し1964年東京オリンピックの一年前に出産、協会に体操選手が出産とは何事か と怒鳴られたが反撥し、合宿で浴衣を裂いてオムツを作り川で洗濯したり育児をしながら練習した。日本はオリンピック団体6位、4位と成績が上がって東京では3位以内が絶対条件のプレッシャーの中、女子選手で唯一三大会連続出場して銅メダルを獲得した。更に1966年ドルトムント世界選手権で個人総合3位銅メダル、平行棒で銀メダル。この間、全日本選手権個人総合で優勝10回。 当時ママさん体操選手は世界でもほとんどいなかったが、最後の世界選手権(ドルトムント)33歳で表彰台に他国の選手と並んで日本ではジュニアが育っていないことを痛感し、正式に引退を表明する前にジュニア育成のクラブを作った。引退後は指導者として人一倍精力的な活動を続け、1975年全日本ジュニア体操クラブ協議会設立に奔走、女性唯一の役員(副理事長(のち専務理事))、1978年全日本ジュニア体操競技大会、1989年国際ジュニア体操競技大会を開催。全日本ジュニア体操クラブ連盟理事長、日本体操協会副会長、NHK 経営委員、テレビ朝日番組審査委員、2008年オリンピック・パラリンピック(横浜)策定部会長など多くの役職を歴任。母校日体大の名誉教授、副学長を務めて2003年退職。2002年、日本体操女子で初めて国際体操殿堂入りした。
池田の足跡は、現代日本の女子スポーツ史そのものといえる。
カテゴリ: 日本の体操競技選手 | オリンピック体操日本代表選手 | 広島県出身の人物 | 1933年生 | オリンピックに関するスタブ