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沖縄かりゆしFC |
原語表記 |
沖縄かりゆしFC |
愛称 |
かりゆし |
クラブカラー |
オレンジ |
創設年 |
1999年 |
所属リーグ |
九州社会人リーグ |
ホームタウン |
那覇市 |
ホームスタジアム |
|
収容人数 |
|
代表者 |
與那嶺茂 |
監督 |
仲本洋 |
公式サイト |
公式サイト |
■Template(■ノート ■解説)■サッカークラブpj
沖縄かりゆしフットボールクラブ(FC)(おきなわ―)は、沖縄県那覇市を本拠地とするサッカーのクラブチームである。
1999年に地元最大のホテル業である「かりゆしホテルグループ」のサッカー部として発足。その年の天皇杯沖縄県予選会を兼ねた「沖縄タイムス杯県サッカー選手権」で準優勝する健闘を見せる。その後も「沖縄テレビ杯県社会人リーグ戦」も3部(東部ブロック)→2部→1部とステップアップして優勝を飾る。
チームが本格的にJリーグ参戦を目指そうとするようになったのは県社会人リーグ1部を制した2001年。元ヴェルディ川崎のラモス瑠偉を選手兼テクニカルアドバイザーとして招聘し、チームを「株式会社沖縄かりゆしフットボールクラブ」として法人組織化。サテライト(2軍)組織「かりゆしサウシーシャ」(県社会人リーグ所属)、ユース組織も確立した。
2002年に九州社会人リーグで優勝し、JFL昇格がかかった地域リーグ決勝大会にこまを進めるが、惜しくも予選ラウンドで敗退。その際選手の集団退団騒動(その選手とラモスが中心になり新チームFC琉球が結成)が起こりチーム存続の危機に立たされたが、2003年に新規加入選手を多数擁し、加藤久監督の下で悲願のJFL参戦と将来のJリーグ入りを目指していた。しかし、2004年度限りでかりゆしのスポンサードが打ち切られるとともに、同年9月に加藤監督以下当時の所属選手27人全員の退団を発表した。同年10月に開催された全国社会人サッカー選手権大会ではホンダルミノッソ狭山FC(ホンダの埼玉製作所・狭山工場の実業団チーム)と死闘を展開し0-0の同点ながら(延長戦が台風のため行わなかったので)優勝を飾った。
その後2005年にサテライト組織「かりゆしサウシーシャ」所属選手を中心にしてチームを再編し九州社会人リーグで引き続いてプレーすることになった。
[編集] チーム成績・歴代監督
年度 |
所属 |
試合 |
勝点 |
勝利 |
引分 |
敗戦 |
順位 |
監督 |
2000年 |
沖縄県3部東 |
? |
? |
? |
0 |
0 |
優勝 |
? |
2001年 |
沖縄県1部 |
9 |
27 |
9 |
0 |
0 |
瀧田一之 |
2002年 |
九州社会人 |
18 |
53 |
18(1) |
- |
0(0) |
2003年 |
22 |
54 |
18 (2) |
- |
4 (2) |
加藤久 |
2004年 |
18 |
25 |
15(1) |
- |
3(0) |
2位 |
2005年 |
18 |
13 |
4(1) |
- |
13(2) |
8位 |
與那嶺茂 |
2006年 |
15 |
24 |
8 |
- |
7 |
5位 |
- ( )内の数字はPK戦での勝敗数
[編集] ユニフォーム
ユニフォームの色
カラー |
シャツ |
パンツ |
ストッキング |
FP(1st) |
オレンジ |
オレンジ |
オレンジ |
FP(2nd) |
白 |
白 |
白 |
GK(1st) |
緑 |
緑 |
緑 |
GK(2nd) |
黄 |
黄 |
黄 |
|
|
|
[編集] チーム名「かりゆし」について
- 沖縄県の言葉で幸せや縁起のいいことを指しており、県民の夢と希望、そして活力を与えるチーム作りを目指そうと取り組んでいることを全面的に押し出している。
[編集] 外部リンク