洗足池
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この地域の古い地名は「千束」であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。由来としては仏教用語の千僧供料(せんそうくりょう)の寺領の免田であって、千束の稲が貢租(税)から免除されていたとする説や、元の地名の「大池」(洗足池)が水源地として灌漑に利用されたので稲千束分の税が免ぜられていたとする説などがある。のちに、身延山から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮上人が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。
日蓮が袈裟をかけたと言われる「袈裟掛けの松」(3代目)も残っている。池の北側の中島には洗足池弁財天が祀られている。
洗足池を含む一帯は、大田区立洗足池公園となっている。ボートハウスが設置され、手漕ぎ・足漕ぎボートでの遊覧ができる。また都内有数の桜の名所としても知られ、春には賑わいを見せる。
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[編集] 水源
湧水池で流れ込む川はないが、かつての付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水が多くあり、用水路を通して池に流れ込んでいた。洗足池の主要な水源となる湧水はかつて4ヶ所あったとされ、現在は清水窪弁財天(大田区北千束1-26所在)が残っている。今も水量が豊富で、浸透管を用いて洗足池に流れている。なお、洗足池の近くには「小池」というもう1つの池があり、これに対して洗足池を「千束の大池」とも呼ぶ。
[編集] 歴史
かつては、池のほとりに勝海舟晩年の邸宅「千束軒」あったが戦災で焼失。現在は勝夫妻の墓が残り、大田区の文化財に指定されている。また、池の北側には中島のような池上弁財天がしつらえられている。 幕末、勝海舟は江戸総攻撃の中止と江戸無血開城を西郷隆盛に直談判するため、官軍の薩摩勢が駐屯していた池上本門寺へ向かう途中、洗足池のほとりで休息した。明治維新後、池の風光明媚を愛した勝が池のほとりへ移り住んだ。西郷もここを訪ねて勝と歓談したと言う。勝夫妻の墓のとなりに「西郷隆盛留魂碑」が建つ。これは、西郷が西南役に倒れた後、当時の東京府南葛飾郡の浄光院境内に勝が自費で建てたもの。1913年(大正2)に荒川放水路開鑿に伴い、当地に移建された。