本門寺
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本門寺 | |
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所在地 | 東京都大田区池上一丁目1番1号 |
位置 | 北緯35度34分49.02秒 東経139度42分12.54秒 |
山号 | 長栄山 |
宗派 | 日蓮宗大本山 |
本尊 | 日蓮像(大堂本尊、重要文化財) |
創建年 | 伝・弘安5年(1282年) |
開基 | 伝・日朗 |
正式名 | |
別称 | 池上本門寺 |
札所等 | 日蓮聖人霊跡 |
文化財 | 五重塔、木造日蓮聖人坐像、兄弟抄日蓮筆(重要文化財) 宝塔ほか(東京都有形文化財) |
本門寺(ほんもんじ)は、東京都大田区池上一丁目1番1号にある、日蓮宗の大本山。山号は長栄山。池上本門寺ともいう。
目次 |
[編集] 起源と歴史
本門寺は、日蓮が生涯最後の20数日間を過ごし死去した、武蔵国千束郷(東京都大田区池上)の地に建てられた寺院である。弘安5年(1282年)9月8日、当時61歳で病をかかえていた日蓮は、本拠地の身延山をあとにした。常陸(茨城県)の湯治場へ病気療養へ向かう予定だったという。9月8日、日蓮は武蔵国千束郷にあった鎌倉幕府の御家人・池上宗仲の屋敷に到着し、10月13日、ここで没した。日蓮が荼毘に付された後、池上が土地を寄進し、日蓮の弟子の日朗が伽藍を建立したのが本門寺であるとされている。なお、池上宗仲の屋敷跡は本門寺西側の谷下にあり、本行寺という寺になっている。本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも徳川家や諸侯の祈願寺となり栄えた。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失した。
[編集] 伽藍及び境内の文化財
本門寺の主要堂宇は急斜面に囲まれた台地上に位置し、正面入口にあたる総門から寺の中心部へは96段の急な石段を上る。この石段は加藤清正が寄進整備したものと伝え、此経難持坂(しきょうなんじざか)の名がある。「此経難持」とは法華経見宝塔品(けんほうとうぼん)の偈文(げもん、経典中の詩句で書かれた部分)の冒頭の句であり、この偈文が96文字から成ることから、石段の段数を96段にしたものという。石段を上り、仁王門をくぐると、本堂にあたる大堂を中心とした伽藍が広がる。仁王門手前には長栄堂と日蓮像、仁王門をくぐって左手(西側)には日朝堂、鐘楼、霊宝殿、経蔵があり、境内東側の墓地内には五重塔が建つ。さらに、境内北側、公道を横切った先の一画には本殿、客殿、朗峰会館、松涛園などがある。
- 総門
- 元禄年間(17世紀末~18世紀初め)の建立と伝える。扁額は本阿弥光悦の筆による。
- 大堂(祖師堂)
- 「祖師」すなわち日蓮上人を祀る事から「祖師堂」ともいう。旧大堂は、本門寺14世日詔の時代の1606年(慶長11)、加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立したが、1710年(宝永7)に焼失。本門寺24世日等時代の1723年(享保8)に、8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小の上再建された。この2代目の大堂は1945年(昭和20)4月の空襲により焼失。1948年(昭和23)仮祖師堂と宗祖奉安塔を建設。その後、本門寺79世伊藤日定が中心となり全国檀信徒の寄進を受け1964年(昭和39年)に現在の大堂を再建した。この際仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築された(現在の霊宝殿の位置)。
- 現在の大堂は、鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造。高さ27メートルの大建築である。堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、向かって右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。2005年(平成17)4月から屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・防火対策等の工事が行なわれ、建物全体が足場で覆われていたが2006年(平成18年)4月に工事が完了した。
- 第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていた(戦災で焼失)。再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額がかかる。
- 五重塔(重要文化財)
- 空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立された。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。高さ29メートルで五重塔としては中程度の規模である。
- 本殿常経殿
- 1969年(昭和44)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。本尊の釈迦如来像胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。
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- 仁王像
- 本殿正面を入ると左右に祀られている。彫刻家の圓鍔勝三の作になる。モデルはアントニオ猪木とのこと。元は仁王門に祀られていたが、近年修理のため撤去され、修理後は本殿に場所を移した。
- (参考文献)圓鍔勝三「大本山本門寺仁王像謹作をひかえて」『史誌』6号、大田区史編纂室、1976年。
- 山門(仁王門)
- 大堂正面に建つ二重門。1977年(昭和52年)に再建。
- 日蓮像
- 仁王門手前の石段の脇に立つ。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像である。彫刻家の北村西望の作。ここにはもと、明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。
- 日朝堂
- ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされている。以前はここで境内に居る鳩の餌を販売していたが現在は東京都の指導により販売中止している。
- 鐘楼
- 現在の鐘楼は1958年(昭和33)の再建。旧梵鐘は1647年(正保4年)加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されている。
- 経蔵(大田区指定文化財)
- 五重塔とともに、第二次世界大戦の空襲に焼け残った建物の1つ。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移された。
- 宝塔(東京都指定有形文化財)
- 本殿から公道を隔てた西側、急な石段の途中の谷底に建つ。1828年(文政11年)日蓮の550回を期して成瀬侯により建立されたもの。宝塔とは、円筒形の塔身の上に宝形造(ピラミッド形)の屋根を載せた建築形式で、石造などの小規模なものが多く、屋外に建つ木造宝塔で大規模なものは珍しい。宝塔背後には紀州徳川家内室の墓所がある。
- 池上氏館跡土塁
- 紀州徳川家内室の墓所西側に南北方向に走る土手があり、池上氏館居館部分の土塁と考えられている。徳川家墓所に面した土塁東側斜面の一部には、墓所造営に伴うと見られる石垣で覆われている。大田区教育委員会によると、宝塔及び徳川氏墓所、大坊本行寺を含む台地西側の谷一帯は、池上氏館の根小屋(居館部分)であり、土塁は根小屋に付随する遺構と考えられている。
- 松涛園(東京都指定旧跡)
- 本殿裏、朗峰会館北側に位置する。小堀遠州の作庭。明治元年(1868)4月、西郷隆盛と勝海舟が江戸城明け渡しの会見をした場所。1991年(平成3年)に改修。
- 根庵、鈍庵
- 陶芸家、大野鈍阿の旧宅を移築保存。
- 妙祐山理境院
- 総門を入ってすぐ左手にある。本門寺三世日輪の住坊として元亨年間(1321~1324年)に開創。大坊本行寺、照栄院と共に池上三院家に列せられ、朱塗りの山門を許された古刹。幕末、官軍の薩摩藩勢が江戸進撃の途上に本門寺に駐屯した際、理境院は西郷隆盛の宿営に当てられたという。
- 照栄院
- もとは日蓮宗僧侶の教育の場として、1689年(元禄2)に開創された南谷壇林(なんこくだんりん)が置かれていた。壇林は1869年(明治2))に廃されたが、当時の遺構として1836年(天保7)再建の「板頭寮」(ばんとうりょう)の建物が、同寺の庫裡として境内に現存する。同寺背後の石段(妙見坂)を上がると、かつての南谷壇林の守護鎮守として、加藤清正息女瑶林院が奉納した「妙見菩薩立像」を祀る妙見堂がある。また妙見堂脇には、第二次大戦後シンガポールのチャンギー捕虜収容所で、照栄院住職が教誨師を務めていた関係で、いわゆるB・C級戦犯として同地で処刑された、旧日本軍兵士・軍属を慰霊する「チャンギー殉難者慰霊塔」が祀られている。
[編集] 文化財
[編集] 重要文化財(国指定)
- 五重塔
- 1997年(平成9)10月から2003年(平成14)3月にかけて国庫補助事業として解体修理が行なわれた。
- 木造日蓮聖人坐像
- 兄弟抄 日蓮筆
[編集] その他
- 宝塔(東京都指定有形文化財)
- 日蓮筆消息文(東京都指定有形文化財)
- 日蓮筆大曼荼羅(東京都指定有形文化財)
- 日蓮遺物配分帳(東京都指定有形文化財)
- 身延山守番帳(東京都指定有形文化財)
- 日朗筆大曼荼羅(東京都指定有形文化財)
- 経蔵(大田区指定文化財)
- 日朗聖人坐像(大田区指定文化財)
- 日輪聖人坐像(大田区指定文化財)
- 天海版一切経(大田区指定文化財)
- 木造柄香炉(大田区指定文化財)
- 兜木コレクション
- 法華経研究の第一人者で立正大学名誉教授、東京都豊島区の雑司谷本納寺33世住職でもあった兜木正亨(かぶとぎ・しょうりょう)収集の、1000点以上に及ぶ法華経関連資料。日蓮聖人真筆『御所御返事』や日蓮聖人の伝記絵巻『日蓮聖人註画讃』(安土桃山時代)等を含む。1995年(平成7)12月に本門寺へ寄贈された。
[編集] その他
- 毎年10月11日~13日に、お会式が行われ賑わう。(約30万人が参詣に訪れる)
- 著名人の墓が多く、幸田露伴・力道山の墓もある。
- 初詣 毎年多くの参詣者で賑わう。境内では大道芸や池上囃が披露される。2007年は警視庁調べで都内参詣者数上位10に入った。
- 節分 力道山の墓がある関係でプロレスラーの出仕が多い。
- 本行寺釈迦堂 1723年(享保8年)池上本門寺より日蓮の御歯骨が分与され奉安されている。
- 毎月1回行われるフライデーガーデンコンサートや、2002年からは「イキイキ推進委員会」[1]により、桜広場を使用した野外ステージでのコンサートなども行われる。
- 大田区立本門寺公園
- 本門寺主要伽藍がある台地の東側の谷を利用した公園。遊具を設置した広場とグラウンド、弁天池、台地斜面に設置された遊歩道などからなる。1938年(昭和13)12月に「東京市本門寺公園」として開園。戦後大田区に移管された。
[編集] 池上本門寺の考古学
池上本門寺には多数の近世(江戸時代)の墓所が分布し、狩野探幽墓所などは文化財指定を受けている。2002年(平成14)から2003年(平成15)には、重要文化財五重塔の解体修理に伴い、塔周辺の墓地整理が行なわれた。
大名墓として、米沢藩上杉家圓光院殿墓所、肥後熊本藩細川家清高院殿及び高正院殿墓所の3墓所、また奥絵師狩野家の4家(仲橋狩野宗家、鍛冶屋町狩野、浜町狩野、木挽町狩野)の1つ、木挽町狩野家2代目狩野養朴常信墓所、3代目狩野如川周信墓所、9代目狩野晴川院養信墓所の3墓所の発掘調査が、立正大学の坂詰秀一教授を団長に、本門寺と大田区教育委員会、立正大学考古学研究室により実施された。
この調査により、近世墓の上部構造と下部構造が考古学的に解明された。特に下部の埋葬施設に関しては調査例が僅かであり、重要な調査成果と評価されている。墓所は解体修理された後、若干位置を移動され、現在は補強の上復原整備されている。調査成果は発掘調査報告書として刊行された。発掘調査報告書は、本門寺霊宝殿受付にて購入可能。
[編集] (参考文献)
[編集] 大名墓調査関連
- 坂詰秀一編 2004 『池上本門寺奥絵師狩野家墓所の調査-狩野養朴常信墓所・狩野如川周信墓所・狩野晴川院養信墓所-』 池上本門寺。
- 坂詰秀一編 2002 『近世大名家墓所の調査 - 圓光院殿日仙榮壽大姉墓所、清高院殿妙秀日圓大姉墓所、高正院殿妙泉日流大姉墓所』池上本門寺奉賛会。
[編集] 五重塔修理関連
- 文化財建造物保存技術協会編 2003 『重要文化財本門寺五重塔保存修理工事報告書』池上本門寺。
- 藤田香織・腰原幹雄・坂本功 2002年 「伝統的木造五重塔の振動特性に関する研究その2-池上本門寺五重塔の微動測定-」『日本建築学会大会学術講演梗概集』C-1、251~252頁。
- 重要文化財本門寺五重塔修理委員会編 1958 『重要文化財本門寺五重塔修理工事報告書』