田川誠一
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田川 誠一(たがわ せいいち、1918年(大正7年)6月4日 - )は、日本の政治家。元衆議院議員(11期)。
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[編集] 概要
神奈川県横須賀市出身。慶應義塾大学法学部卒業後、朝日新聞社に入社し、記者、同社労組委員長等を務める。同社退社後、松村謙三衆議院議員秘書を経て、1960年に衆議院選挙に初当選。以後旧神奈川2区から11回連続当選。
自由民主党時代は「ハト派」議員として活動。後に旧神奈川2区から小泉純一郎が当選したが、選挙区内の郵政関係各団体は田川を支援していたため、小泉と郵政各団体との関係は悪化したとされる。
1976年、河野洋平(田川の従弟)、山口敏夫らと共に自民党を離党し、新自由クラブの結成に参加。西岡武夫が路線対立で離党した後、その後任として幹事長に就任。1979年、総選挙敗北で新自由クラブ代表を辞任した河野に代わりに第2代代表に就任。40日抗争の後、当時首相であった大平正芳が、首班指名で新自由クラブの協力の見返りとして入閣させようとしたが、自民党内の反発で実現しなかった。1983年、総選挙で過半数割れとなった自民党と連立内閣を組み、第2次中曽根内閣の自治大臣に就任。「張り切り外様大臣」と揶揄されたこともあった。
1986年、自民党が衆参ダブル選挙に大勝し、新自由クラブとの連立を解消。選挙での退潮に歯止めがかからない新自由クラブで、河野、山口らは党を解散して自民党復党への道を選択するが、田川だけは「死んでも自民党には帰らない」と、ひとり自民党復党を拒否し、進歩党を結成した。進歩党はクリーンな政治の実現を訴えたが、1989年、参院選比例区の名簿順位決定をめぐる党内問題が表面化し、金銭疑惑を追及する党員と田川ら党執行部が対立、東京地裁や横浜地裁で訴訟沙汰に発展。結果的に党勢拡大にブレーキがかかった。離党組は進歩自由連合を結党し、完全に袂を分かった。
1993年、総選挙に出馬せず議員引退を表明し、進歩党も解散。日本新党から出馬した永井英慈を事実上の後継として支援した。
親中派として知られ、日中国交回復前は両国のパイプ役を果たした。第二次世界大戦下での中国残留日本人孤児の帰国や親族確認など、地道ながら精力的に人道主義のもとその活動に取り組んできたことは田川の政治家活動の中で最大限に評価できることである。
[編集] 文献
[編集] 著書
- 『訪中一万五千キロ : 変貌する新中国の奥地を行く』青林書院、1960年
- 『松村謙三と中国』読売新聞社、1972年
- 『日中交渉秘録 : 田川日記~14年の証言』毎日新聞社、1973年
- 『政治家以前』横須賀新風会、1977年11月
- 『初陣前後』横須賀新風会、1980年11月
- 『ドキュメント自民脱党 : 変節と脱落のなかで愚直に生きた男たち』徳間書店、1983年6月、ISBN 4191427466
- 『日中交流と自民党領袖たち』読売新聞社、1983年2月
- 『田川日記 : 自民党一党支配が崩れた激動の8日間』ごま書房、1984年12月、ISBN 4341080016
- 『自民党よ驕るなかれ』講談社、1987年4月、ISBN 4062033518
- 『やればできる痺せ我慢の道』行研、1995年5月、ISBN 4877320067
- 『ふるさと浦郷 : 田川家の系譜』かなしん出版、1996年5月
- 『田川誠一オーラルヒストリー』政策研究大学院大学編、2001年
[編集] 関連文献
- 『河野洋平・田川誠一保守新党への出発』国際商業出版編、国際商業出版、1976年10月
- 『河野新党のすべて 新自由クラブ』萩原道彦監、地文社、1976年
- 『新自由クラブ 保守野党の課題と展望』若宮啓文、教育社、1978年10月
- 『政党の崩壊 新自由クラブ挫折の軌跡』河村譲、オーエス出版、1980年3月
- 『小説新自由クラブ』牧太郎、角川書店、1986年9月、ISBN 404164402X
- 『「新党」盛衰記 新自由クラブから国民新党まで』浅川博忠、講談社、2005年11月、ISBN 4062752581
[編集] 関連項目
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