山口敏夫
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山口 敏夫(やまぐち としお、1940年(昭和15年)8月29日 ‐ )は、日本の政治家、元衆議院議員。弁護士。
小柄な体格、精悍な顔立ちと歯切れのいい弁舌に、権謀術数に長けた政治的センスで一般国民にも良く知られた。政界の牛若丸、珍念などのニックネームがある。
[編集] 概要
埼玉県東松山市出身。埼玉県立松山高等学校、明治大学法学部卒業。
父・山口六郎次も衆議院議員だったが、山口が大学在学中に死去。大学卒業後は労働省勤務を経て石田博英衆議院議員秘書となる。1967年に自由民主党から立候補し初当選。26歳の最年少当選で話題になった。厚生政務次官などを務める傍ら、河野洋平、西岡武夫ら同年代の若手と党内左派の勉強会「政治工学研究所」を結成、当時台頭していた党内右派の青嵐会と対立した。
選挙区では永年小宮山重四郎と争い、お互いを敵視し、県議選・市長選などでも対立するほどのライバルであった。ただ得票の面では、田中角栄と得票率で全国一、二を争うほど選挙に強かった山口が毎回小宮山を圧倒していた。これは、小宮山が落下傘であるの対して、山口は東松山市出身であり、地元出身の候補と認識されていたためである。
1976年、河野、西岡、田川誠一らと自民党離党を表明、第二の保守政党を目指して新自由クラブを結党。同年末の衆院選では若さと改革、クリーンイメージを押し出し、一挙に12人の新人を当選させて大勝を収めるが、その後は政党色を明確に打ち出すことができず、既成政党に押されて退潮傾向となる。1983年の自民党・新自由クラブの連立樹立では山口が先頭に立って実現。翌年の第二次中曽根康弘改造内閣では労働大臣として入閣を果たした。
1986年、新自由クラブは総選挙でまたも惨敗し解党、自民党へ復党する。復党前から「安倍晋太郎総理を実現してみせる」と安倍シンパ発言をしていたが、当時の総裁派閥である中曽根派から誘いを受け、入会。ここでは渡辺美智雄の右腕として存在感をアピールし、中曽根派から渡辺派への移行の際には、渋る中曽根や桜内義雄を山口が説得して成し遂げた。
1992年、埼玉県知事選挙に際し、土屋義彦に立候補を断念させようとしたが失敗。政治家としての求心力低下を印象づけた。1993年の川越市長選挙では山口が系列の県議会議員の中野清を、ライバルの小宮山重四郎が元県議会議員で弁護士の舟橋功一を推し代理戦争を行い、小宮山が推した舟橋が僅差で当選する。
また、1993年の宮澤喜一内閣不信任案では不信任票を投じ、再度の自民党離党。渡辺をはじめ誰にも相談せず行動し、山口が不信任を投じると予想していなかった自民党内は大きな騒ぎとなった。無所属となった山口は、親友であった小沢一郎に協力して自民党分断を狙い、渡辺を自民党から離党させて非自民連立に取り込もうと画策するなど、無所属の立場を最大限に活かして立ち回った。
1994年、新進党結党に参加。しかし、翌1995年に東京協和・安全の二信用組合(同年東京共同銀行に統合)による乱脈融資事件に関与したとして背任の共犯容疑で逮捕され新進党を離党。1996年の総選挙には出馬せず事実上の政界引退となった。この選挙では、夫に代わる候補として佳子夫人が後援会に推され無所属で出馬するも、惨敗を喫して落選。かつて選挙で圧倒的な強さを誇った山口の落日を印象付ける結果となり、後援会は解散した。これで、二代にわたる山口家の政治家としての歴史は終焉を迎えることになった。
事件以前はテレビへの出演も多く、TBSのクイズ特番「オールスター感謝祭」初期の頃はレギュラー出演していた。
背任、業務上横領、詐欺、そして衆議院予算委員会での証人喚問に於ける議員証言法違反などの罪で起訴され、2000年に東京地裁で懲役4年、2003年東京高裁で懲役3年6ヶ月の実刑判決を受けた。最高裁は2006年12月4日付で上告を棄却する決定をした。その後、山口被告は、上告棄却を不服として異議を申し立てていたが、12月21日付けで、最高裁第一小法廷は、この異議を棄却する決定をした。そのため、懲役3年6ヶ月の実刑が確定。2007年3月22日、山口が東京地方検察庁に出頭、収監された。ただし、拘置されていた期間のうち100日を刑期から差し引かれるため、刑期は最長で3年2か月余りとなる。
[編集] 関連項目
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