皿屋敷
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皿屋敷(さらやしき)は、お菊という女性の亡霊が皿を数えることで有名な怪談話の総称。
播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)が広く知られる。他に群馬県甘楽郡・高知県幡多郡・五島列島の福江島・尼崎市・松江市・嘉麻市(旧碓井町)など日本各地において類似の話が残っており、それらが相互に影響しあいながら成立したものであろう。
井戸の中からお菊の亡霊が「お皿が一枚……二枚……」「九枚……一枚足りない……」と恨めしげな声で語る、というのが、怪談やお化け屋敷などで登場するときのパターンである。
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[編集] 播州皿屋敷
姫路市の十二所神社に伝わる「播州皿屋敷実録」が原型とされる。
永正年間(つまり現在の姫路城が出来る前)、姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせ、増位山の花見の席で毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。乗っ取りに成功した鉄山は家中に、密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止め、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれといいよったがお菊は拒否した。その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経ってに城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
小寺・青山の対立という史実を元に脚色された物と考えられている。
姫路城に「お菊井戸」が現存する。
バリエーションとして以下のような物もある:
- お菊は衣笠元信なる忠臣の妾で、鉄山を討ったのは衣笠であったというもの。
- お菊は船瀬三平なる忠臣の妻で、お菊の呪いが鉄山を滅ぼしたというもの。
- お菊の最後の姿に似た「お菊虫」なる怪物によって鉄山が殺されたというもの。
お菊虫の元になったのは1795年に大量発生したアゲハチョウの幼虫ではないかと考えられており、このことにちなんで姫路市の市蝶はジャコウアゲハである。(姫路藩主池田氏の家紋は平家由来の揚羽蝶である。)
[編集] 番町皿屋敷
番町は牛込御門内番町(現在の千代田区飯田橋付近か?)とも、現在の千代田区一番町~六番町ともいう。ただし後者は『東海道四谷怪談』の舞台とされる一帯の近くでもある。
お菊の奉公する主人は青山主膳。家宝の皿を割ってしまうか誰かに割られるかしたため、殺されて井戸に投げ込まれたか自ら井戸に飛び込んだか、というバリエーションがある。主膳がお菊を責め立てる際にその指を一本切り落としたため、後に生まれた主膳の子には手の指が一本足りなかったともいう。
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。平塚駅近くにも現在「お菊塚」と呼ばれるあたりに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。
[編集] 尼崎のお菊伝説
青山播磨守の家臣・喜多玄番の屋敷に奉公していたお菊が、食事の中に針が混じっていたことを理由に折檻され井戸へ投げ込まれた。その後お菊の最後の姿に似た虫が大量に現れ、玄蕃の家を呪い滅ぼしたという。
[編集] 岡本綺堂『番町皿屋敷』
1916年(大正5年)作の戯曲。怪談ではなく悲恋物語の形を取る。
旗本青山播磨と腰元のお菊は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。