福井康順
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
福井康順(ふくい こうじゅん、1898年 - 1991年)は、日本の仏教学者、中国学者。早稲田大学名誉教授。天台宗の僧籍を持ち、日光山輪王寺内にある唯心院の住職を経て、妙法院の門跡となる。津田左右吉の弟子であり、津田とともに早稲田大学東洋哲学研究室の発展に力を注いだ第一人者である。また、道教の学術的研究の必要性を早くから訴え、日本におけるその基礎を整えるにあたって先駆的役割を果たした。実子の福井文雅、福井重雅も東洋学者。弟子に野末陳平がいる。
[編集] 略歴
- 明治31年(1898年)、長野県に生まれる。父は町役場に勤める公務員。母は寺院の生まれ。
- 明治43年(1910年)、日光の輪王寺で得度。
- 大正13年(1924年)、早稲田大学文学部哲学科卒業。大学院に入り、津田左右吉に師事。
- 昭和7年(1932年)- 昭和9年(1934年)、中国に留学。胡適らと面会。当時の中国における思想界の最新動向に刺激を受ける。なお、この辺の事情は『福井康順著作集』第3巻所収の「思想と宗教」「近代思想の展開」に詳しく記されている。
- 昭和10年(1935年)、津田左右吉とともに、早稲田大学東洋思想研究室(現在の早大東洋哲学研究室)を開設。昭和12年(1937年)には、年報『東洋思想研究』を創刊。新宿中村屋の主人・相馬愛蔵の出資を受ける。
- 昭和15年(1940年)、国粋主義者の非難を受けた津田左右吉が教授辞任に追い込まれる。津田に代わって、早大東洋思想研究室の維持・発展を指導する。
- 昭和25年(1950年)、日本道教学会を設立。会長をつとめる。
- 昭和44年(1969年)、早稲田大学教授を退任。のち名誉教授。
- 昭和47年(1972年)- 昭和50年(1975年)、大正大学学長。
- 昭和51年(1976年)、勲二等瑞宝章を受章。
- 昭和59年(1984年)6月9日、京都、蓮華王院の本坊である妙法院の第49世門跡に就任。
- 平成3年(1991年)、逝去。
[編集] 著書
- 『福井康順著作集』全6巻、法蔵館,1987-88.に収められる。主著は『道教の基礎的研究』1952.そのほか、仏教とりわけ天台宗に関わる研究も重要。