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福田 一(ふくだ はじめ、1902年4月1日 - 1997年9月2日)は、日本の政治家(元自民党衆議院議員)、第62代衆議院議長(在任期間・1980年7月17日-1983年11月28日)。
[編集] 略歴・人物
福井県出身。東京府立三中などを経て、東京帝国大学卒業。同盟通信記者を経て衆議院議員に。通産大臣、自治大臣、法務大臣などを歴任した後、1980年7月、第62代衆議院議長に就任。1983年11月まで務めた。ちなみに、通産大臣・自治大臣を勤めた時、それぞれの事務次官人事に介入し、存在感を見せ付けたこともある。法務大臣在任中にダッカ事件が発生、犯人らの要求に屈する形で、勾留中の日本赤軍メンバーを超法規的措置により釈放、周囲の慰留を振り切って大臣を引責辞任した。
その他にも
- 北陸新幹線のルート・工事区間が発表された時、その案は「~福井駅」までであったが、一夜明けるとなぜか南越(武生)駅(福田の選挙基盤)まで延びていた。これは元々の折衝では南越駅までの案となっていたのが、福田の知らぬところで福井駅まで案に削減されていたため、福田がその夜、担当者らを怒鳴りつけ、翌朝こっそり変更となったと伝えられる。
- 消費税法案が国会採決された際、自民党長老であった福田は反対(青票)に投票。かつ成立後に自民党を単独離党する。「選挙区民に消費税導入はないと説明していたのに、示しがつかない。有権者を裏切ることはできない。これは自民党が自分を裏切ったのである」という理由からである。慌てた自民党は首相や首相経験者、党幹部、派閥会長などを派遣し説得に努めたが、福田は頑として聞かなかった。
- 政界引退後、選挙基盤の後援会の一部が娘婿を擁立しようとしたが、福田自身はこの出馬に対する応援を拒否。「政治は世襲ではない」と言い放ち、全く応援をしなかった。選挙対策側は福田の「一」の字を折り込んだポスターを作成するなど苦心したが、有力な後援者や一般の有権者らも福田に同調したため、娘婿は落選した。
など、地元では「ピンさん」と呼ばれ敬愛され、逸話の多い人であった。
[編集] 経歴