秋元正博
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秋元 正博(あきもと まさひろ、1956年9月3日 - )は日本の元スキージャンプ競技選手である。北海道札幌市出身。明治大学政治経済学部卒。現役時代は地崎工業に所属。
[編集] プロフィール
- 1970年代後半より1980年代中盤にかけて、八木弘和とともに日本スキージャンプチームの中心選手として活躍した。
- レークプラシッドオリンピックでは70m級では八木ら二人いた2位にわずか1点差の4位。あと50cm長く飛んでいれば、銀メダルが獲得でき、表彰台に日本選手が2人上がることができた。
- また、90m級では公開練習、トライアルではともに3位以内をキープし、日本選手で初の90m級でのメダル獲得が期待されたが、10位に終わった。
- サラエボオリンピックでは、日本選手で最もメダルに近いと言われながら、直前に交通死亡事故を起こし、出場辞退に追い込まれた。
- そのリベンジを賭けて1985年2月10日の大倉山でのワールドカップ札幌大会に出場、1本目7位から大逆転で優勝し、この日が秋元にとってのオリンピックとなった。
- 1986年3月8日、オーストリアのバートミッテルンドルフで行われた世界フライング選手権第1日の2本目、空中で大きくバランスを崩して大転倒、右足首を複雑骨折する重傷に見舞われた。競技継続が絶望視されたが、執念のリハビリで翌年復活、復帰戦となった第58回宮様スキー大会国際競技会で3位に入った。なお、この事故の原因は横からの突風に加え秋元のフライングヒルには適さない癖のあるジャンプフォームにもあったのだが、あまりにショッキングな映像だったためその後日本では「ジャンプは危険なスポーツ」との偏見がつきまとうようになってしまったのも事実である。
- その後も好成績を残したが31歳という年齢から1988年のカルガリーオリンピックメンバーから漏れ、1988年-1989年シーズンをもって原田雅彦、葛西紀明らと入れ替わるように現役を退いた。
- 内外試合通算88勝は世界最多で現在も[要出典]破られていない。うちワールドカップ4勝、シーズン11連勝など、80年代国内最強ジャンパーであった。
- 2005年、新党大地の副代表となった。
[編集] 主な成績
- 1980年レークプラシッドオリンピック
- 70m級 - 4位
- 90m級 - 10位
- FISワールドカップ - 4勝、表彰台(3位以内)8回