竹内良一
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竹内 良一(たけうち りょういち 1903年11月 - 1959年1月18日)は東京府出身の俳優。
陸軍大尉外松亀太郎(とまつ かめたろう)の長男として東京市赤坂区青山に生まれる。本名外松良一。祖父外松孫太郎は和歌山藩出身で、陸軍主計総監になり、1907年に日露戦争行賞として男爵の位を授けられた。孫太郎の死の1ヵ月後、1926年8月、父亀太郎が襲爵。
1911年、学習院初等科入学。学習院中等科を経て、1922年、学習院高等科卒業。1924年6月、築地小劇場の演技研究生となり、千田是也たちと共に演劇を学び、竹内良作の芸名で舞台に立つ。
1925年7月、日活大将軍の映画監督村田実と映画研究家森岩雄の渡欧に同行し、ベルリンで演劇を学ぶ。1926年に帰国し、村田たちの世話で日活大将軍に入社。竹内良一と芸名を改めて『彼をめぐる五人の女』に準主演。このとき、主演俳優岡田時彦の紹介で岡田嘉子と知り合う。
1927年3月、映画『椿姫』の撮影中に、共演者の岡田嘉子と駆け落ちを敢行して波紋を呼ぶ。同年4月、福岡県飯塚市で嘉子と共に発見され、一度は別れさせられたが、嘉子と結婚する意志が固いことを表明したため、亀太郎の働きかけにより廃嫡された上、同年5月、宮内省から華族としての礼遇を停止された上で、嘉子との結婚が許された。
1931年11月、松竹に入社。しかし、同じころ松竹に入社した嘉子が看板女優となったのに対し、竹内に人気が集まらなかったため、夫婦関係に亀裂が入る。竹内は酒に溺れるようになり、1936年には別居。1938年1月、嘉子は演出家杉本良吉と共にソ連へ亡命。
戦時中は本名(外松良一)で国策映画『秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏』(1943年)に出演し、外人"チャーレス・クーパー"の役をこなす。1945年2月、亀太郎死去。戦争末期の混乱の中、弟の昭二が襲爵手続を取らなかったため、男爵の位は廃爵となる。
戦後は東京都調布市に日本映画俳優学校を設立し、教頭に就任。晩年は宗教に心の拠り所を求め、1959年1月18日、調布市上石原にあった生長の家の練成道場にて、信者仲間に看取られつつ脳溢血で死去した。