第37師団 (日本軍)
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第37師団(だいさんじゅうななしだん)は、大日本帝国陸軍の師団の一つ。昭和14年2月7日に中国での占領地警備や治安維持のために編成された「歩兵三個連隊制師団」である。当初華北の第1軍に編入され八路軍の活動に対抗するため山西省晋南の警備に当たると同時に、ほかの治安師団と同様に昭和14年夏以降に行われたさまざまな治安作戦に参加する。
太平洋戦争開戦後も第1軍隷下にあり山西省に駐屯していたが、昭和19年3月31日に第12軍に編入され大陸打通作戦に参加し南進を開始、北京から漢口までの鉄道を打通する京漢作戦において、4月23日河南省密県、4月30日には許昌を占領、続く湘桂作戦においては9月29日に湖南省宝慶を占領、11月24日広西省南寧に至り、12月10日には綏禄にて仏印方面から北上してきた第21師団の部隊と連絡し大陸打通を達成、12月19日印度支那派遣軍に編入される。印度支那派遣軍隷下タイ王国のナコーンナーヨック県バーンナー近郊に駐屯して対イギリス戦に備えたが、当地で終戦を迎えた。日本一歩いた軍隊と言われている。昭和21年復員。
戦後、ナコーンナーヨック県の駐屯地は、タイ王国陸軍のジュラジョームクラオ士官候補生学校に転用された。
ナコーンナーヨック県のプランマニー寺に慰霊碑奉賛会が納めた石碑がある。
[編集] 師団概要
[編集] 歴代師団長
- 平田健吉 中将:昭和14年3月9日 - 昭和15年8月1日
- 安達二十三 中将:昭和15年8月1日 - 昭和16年10月15日
- 長野祐一郎 中将:昭和16年10月15日 - 昭和20年4月7日
- 佐藤賢了 中将:昭和20年4月7日 - 終戦
[編集] 最終所属部隊
- 歩兵第225連隊(熊本):鎮目武治大佐
- 歩兵第226連隊(都城):岡村文人大佐
- 歩兵第227連隊(鹿児島):河合自一大佐
- 山砲兵第37連隊:河野武夫中佐
- 工兵第37連隊:遠藤秀人中佐
- 輜重兵第37連隊:米岡三郎大佐
- 第37師団通信隊:丸田憲治郎少佐
- 第37師団第1野戦病院:陸哲之軍医少佐
- 第37師団第2野戦病院:岩崎豊次軍医大尉
- 第37師団第4野戦病院:阿部隣太郎獣医少佐
- 第37師団防疫給水部:関三千夫軍医大尉
- 第37師団病馬廠:阿部隣太郎獣医少佐
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