第8師団 (日本軍)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
目次 |
[編集] 経歴
[編集] 設立の経緯
日清戦争が終り、軍備拡張の必要性から増設された6個師団の一つで、兵士はおもに東北地方出身者から構成された。編成時の所属歩兵連隊は歩兵第5連隊・歩兵第17連隊・歩兵第31連隊・歩兵第32連隊。初代師団長は台湾総督府幕僚参謀長だった立見尚文中将。
[編集] 八甲田雪中行軍遭難事件
勝利に終った日清戦争であるが、ロシア・フランス・ドイツによる所謂三国干渉によってロシアとの間に緊張が高まっていた。ロシアとの一戦は避けられないとの予測から陸軍は対露戦を準備し、寒冷地での訓練を第8師団に指示した。これに基づき師団は1902年(明治35年)1月八甲田山における行軍訓練を行ったが、この時死者199名という大惨事を起こしている。これが八甲田雪中行軍遭難事件である。
[編集] 日露戦争
いざ日露戦争となり、師団も1904年(明治37年)6月動員下令となるが戦場へ直ぐは派遣されず、満州軍の予備隊に位置付けられる。1905年(明治38年)1月に至り戦況の芳しくない黒溝台会戦に援軍として派遣される。ここでロシア軍は潰走し、続いて奉天会戦に参加する。2月10日には奉天を占領した。戦後師団長の立見は部内の戦死者遺族の家を廻ったと言う。
日露戦争後の1910年に朝鮮半島に駐留し、1921年(大正10年)のシベリア出兵に参加する。
[編集] 満州事変
1931年の満州事変では熱河作戦に参加し、1937年(昭和12年)から満州に駐屯する。1939年(昭和14年)所属の歩兵第32連隊が新設の第24師団に編入された。
[編集] 太平洋戦争
太平洋戦争では1944年(昭和19年)7月からフィリピン戦線に投入され、ルソン島とレイテ島に展開する。レイテ島の支隊は全滅し、ルソン島の本隊は米軍との戦闘中に終戦を迎える。
[編集] 関連事項
[編集] 小野田寛郎
終戦の後も現地に残置諜者として潜伏し30年を経て帰還した小野田寛郎少尉は辞令の上では第14方面軍司令部附であったが、同司令部情報部を通して第8師団参謀部に所属していた。小野寺が主宰する[1]
[編集] 師団概要
[編集] 歴代師団長
- 立見尚文:1898年(明治31年)10月1日
- 渡辺章:1906年(明治39年)7月6日
- 山根武亮:1908年(明治41年)12月21日
- 小泉正保:1912年(明治45年)1月14日
- 大井成元:1914年(大正3年)5月11日
- 白井二郎:1918年(大正7年)7月2日
- 小野寺重太郎:1921年(大正10年7月20日
- 菱刈隆:1924年(大正13年)2月4日
- 真崎甚三郎:1926年(昭和2年)8月26日
- 三好一:1929年(昭和4年)7月1日
- 西義一:1931年(昭和6年)8月1日
- 中村孝太郎:1934年(昭和9年)3月5日
- 下元熊弥:1935年(昭和10年)12月2日
- 前田利為:1937年(昭和12年)8月2日
- 塚田攻:1928年(昭和13年)12月10日
- 本田政材:1940年(昭和15年)10月28日
- 横山静雄:1942年(昭和17年)6月26日
- 横山静雄:1945年(昭和20年)3月19日(第41軍司令官に移り、第8師団長事務取扱を兼ねる)
[編集] 最終所属部隊
- 歩兵第5連隊(青森)
- 歩兵第17連隊(秋田)
- 歩兵第31連隊(弘前)
[編集] 参照
- ^ 小野田自然塾ホームページでは自身の軍歴を第8師団の通称号である「杉兵団」を用いて「杉兵団参謀部に配属」と紹介している。<ref>[http://www.andec.com/onoda/gunreki.html 小野田寛郎軍歴]</li></ol></ref>
この「第8師団 (日本軍)」は、軍事に関連した書きかけ項目です。この項目を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています。(関連: ウィキポータル 軍事/ウィキプロジェクト 軍事/ウィキプロジェクト 軍事史)