筒井修
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筒井修(つつい おさむ、1917年10月12日 - 1990年11月3日)は、香川県善通寺市生まれの元プロ野球選手・プロ野球審判員。
[編集] 来歴・人物
1931年に愛媛県立松山中等商業学校に入学。松山商では遊撃手で4番を打ち1935年の全国中等学校優勝野球大会では中心打者として母校を優勝に導く。この事が東京巨人軍関係者の目に留まり翌年巨人に入団。4番に名を連ねチームの優勝(公式戦初代覇者)にも貢献するが1937年のプレーオフ直前に応召されたのを機に人生が暗転する。1941年に復員してチームに合流するが選手としてプレーしたのはこの年が最後。2度目の応召を受け、手榴弾の暴発により左手の親指以外の指を失い選手生命を絶たれてしまったのである。もしこのような不運がなかったら戦後も巨人でプレーしていたのは間違いなかったであろう。
選手としての成績は実働3年、159試合出場、517打数118安打、2本塁打、51打点、28盗塁、打率.228
2度の応召によって選手生命を絶たれたのを機にプロ野球審判になる事を決意。1948年に日本野球連盟の審判部に入局したが翌年の暮れに2リーグ制に移行するとセントラル・リーグの審判部に転籍。1955年に審判部が東京・関西2部制になると関西審判部に所属。初代の関西審判部主任をつとめさらに審判部副部長をつとめた。オールスターゲーム・日本シリーズには第1回からジャッジし、公式戦では記憶に残る優勝決定試合に立会い、1971年9月2日の阪神対広島戦で審判としては2番目の通算3000試合出場を達成。1リーグ時代からの審判では最も長く現役をつとめる(最も長く在籍したのは島秀之助審判だが専任指導員時代が長いため現役としては長くない。)が1977年惜しまれつつ引退した。審判員としての通算試合出場数は3451(歴代5位)、オールスター10回、日本シリーズ17回(ともに歴代2位)。
1990年11月3日死去。享年73。死去の翌年、1991年に競技者表彰で野球殿堂入りしている。
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