島秀之助
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島 秀之助(しま ひでのすけ、1908年6月21日 - 1995年12月26日)は兵庫県神戸市生まれのプロ野球選手・監督・審判員。
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[編集] 来歴・人物
神戸市立第一神港商業学校時代外野手として4年連続で甲子園に出場。法政大学時代東京六大学野球連盟戦で盗塁王を2度獲得。若林忠志とは法政大時代同期にあたり、苅田久徳は1年後輩にあたる。卒業後逓信省の簡易保険局に入りその野球チームの選手兼監督をつとめる。1935年に名古屋金鯱軍に主将として入団したが同時に東京ジャイアンツから職業野球初の移籍選手として入団した二出川延明がスキャンダルで兼任監督を辞任しプロ野球審判に転向したため1936年から兼任監督となり1937年からは総監督の岡田源三郎の辞任により指揮を執る。その年22盗塁で盗塁王のタイトルを取るが肩を痛めたためその年限りで引退。1938年からプロ野球審判となる。現役時代に足を骨折したことがあり、その後遺症もあったため、第二次大戦には召集されていない。
1949年2リーグ制移行によりセントラル・リーグの審判となり同時に初代の審判部長に就任。1959年6月25日後楽園球場での読売ジャイアンツ-大阪タイガースとの天覧試合では球審を務めた。1963年からは審判部長の肩書きのまま専任指導員となり数々の審判を指導する。1980年のシーズン開幕直前に審判部長の座を富澤宏哉に禅譲。同時に専任指導員を辞任し引退。以降ルール委員として活躍していたが、1995年12月26日に自宅の風呂場で亡くなった。享年87。
審判員としての通算試合出場数は2605試合、オールスター12回、日本シリーズ10回出場している。
酒もギャンブルもやらない謹厳実直な人物として知られており、「俺がルール・ブックだ」の台詞で知られる二出川の豪快さとは対照的な人物であった。
[編集] 通算成績
- 実働2年で120試合に出場。413打数で95安打 うち1本塁打 33打点 51盗塁 打率.230
[編集] タイトル
- 盗塁王1回(1937年秋季)
[編集] 歴代セントラル・リーグ審判部長
- 初代:島秀之助(1949年発足~1980年キャンプイン直前)
- 2代:富澤宏哉(1980年キャンプイン~1990年キャンプイン直前)
- 3代:山本文男(1990年キャンプイン~1997年キャンプイン直前)
- 4代:田中俊幸(1997年キャンプイン~1999年シーズン終了)
- 5代:小林毅二(1999年シーズン終了~2003年シーズン終了)
- 6代:井野修(2003年シーズン終了~)※
(※2006年キャンプイン以降谷博が部長待遇となり2人体制となっている。)