紀尾井坂の変
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紀尾井坂の変(きおいざかのへん)とは、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名が1878年(明治11年)5月14日8時30分頃、東京の紀尾井町清水坂で赤坂仮御所に二頭立ての馬車で向かう明治の元勲・大久保利通を暗殺した事件。
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[編集] 事件の詳細
当時、大久保は1877年(明治10年)の西南戦争で政府軍を指揮したばかりで、薩摩や長州を中心とする不平士族からは、もちろん、政府関係者からも「有司専制」と非難されるほど厳しいまなざしで見られていた。事件はそのような最中に起こる。 大久保は1878年(明治11年)5月14日午前8時ごろ、麹町区三年町裏霞ヶ関の自邸を出発。明治天皇に謁見するため、赤坂仮皇居へ向かう。同日午前8時30分頃、東京の紀尾井町清水坂(紀尾井坂)において、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名が大久保の乗る二頭立ての馬車を襲撃、御者の中村太郎を日本刀で刺殺、次いで乗車していた大久保も刺殺した(享年48歳)。島田らは罪五事を挙げた斬奸状を手に自首したが、同年7月27日6名は斬罪となった。
[編集] 事件の残した影響
- 内村鑑三の記した内村鑑三日記など、著名人の日記にも、この事件の衝撃が語られている。
- 1888年(明治21年)5月、西村捨三、金井之恭、奈良原繁らによって「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられた。
- 人望の厚かった西郷隆盛を敵に回したことで、地元からは冷たく評価され、近年まで地元への納骨すら避けられていた。これは長州派によるイメージ操作があったとする指摘もある。
- 斬奸状には公金を私財の肥やしにしているとの指摘があったが、実際には、お金に対して潔白な政治家で死後は8,000円もの借金が残ったという。しかし、このまま維新の三傑である大久保の遺族が路頭に迷うのは忍びないという配慮から協議の上、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めて、この1万6,000円で遺族を養うことにした。
[編集] 逸話
- 家族にも秘密で、生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を持ち歩き、暗殺された時にもそれを懐に入れていたとされる。
[編集] 外部リンク
[編集] 参考図書
- 勝田政治『政事家大久保利通』(講談社、2003年)