習志野俘虜収容所
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習志野俘虜収容所(ならしのふりょしゅうしょうじょ)は、第一次世界大戦期、千葉県習志野市東習志野(当時、千葉県習志野)に開かれた俘虜収容所である。収容所長は西郷隆盛の嫡子である西郷寅太郎大佐が勤めていた。
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[編集] 概要
第一次世界大戦時にドイツの租借地であった中国青島で、日本の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名を1915(大正4)年から1920(同9)年まで収容した施設である。建設費用は43000円で、収容所(1300坪)に加え、その他所員の詰所、炊事所、物置、附属舎など数百坪という大規模な施設だった。 ※日露戦争時にロシア人捕虜を収容した施設とは異なる。
[編集] 捕虜の生活について
ドイツ人捕虜は徴兵された者が大半であり、母国で様々な職業技術を習得した者も多かった。日本側が用意した収容棟の他に、ドイツ人捕虜の中で建築技術を持った者がラウベ(あずまや)と呼ばれる小屋や演奏会・演劇を行う為の野外ステージを作り、捕虜劇団はイプセンに挑戦し、捕虜仲間を講師にした「捕虜カレッジ」や映画鑑賞も行われていた。また、サッカーやテニス等のスポーツや「習志野捕虜オーケストラ」も組織され、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト等の演奏会やヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」までもが演奏され、単調な捕虜生活を彩っていたといわれている。バラックとバラックの間には菜園が作られ、ビールやワインの醸造までも行われていた。
[編集] 文化交流について
収容所内の印刷所では日本情緒あふれる絵はがきが作られた他、ドイツ兵の中には日本の文化に深い興味をもち、日本の民話の翻訳に没頭するものもいた。 また、地域との交流も残されており、演芸会をのぞきにきた地域の子供達がドイツ兵からラムネをもらったり、収容所見学に来た小学生の一行にドイツ兵が「ボトルシップ」をプレゼントするなどのエピソードも残されている。その交流を通じて石鹸やマヨネーズなどの製法も伝えられたわけだが、カール・ヤーンら5名のソーセージ職人は、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の求めに応じてソーセージ作りの秘伝を公開し、この技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国に伝わっていった。このことは習志野が「日本のソーセージ製造発祥の地」といわれる由縁でもある。ヤーンは最初、伝統の秘伝を公開してしまうことにためらいを示したが、西郷所長の熱心な説得に折れてくれたものだと伝わる。その他、同収容所から房総の牧場に出張してコンデンスミルクの技術指導をした者、東京銀座のカフェーで洋菓子作りの指導を行った者が知られている。日独開戦前、山梨のぶどう園(現サントリー山梨ワイナリー)に招かれ、指導にあたったワイン技師なども収容されていた。現在でも習志野には、このような捕虜生活の中で、捕虜達に歌われていた南ドイツの「シュナーダヒュッペル」という民謡が残されている。
[編集] 収容所生活での事件
4年半に及ぶ習志野での捕虜生活において最大の事件は、大正7年の秋から世界中で大流行した「スペイン風邪」(インフルエンザ)によって、25名のドイツ兵と西郷所長が命を落としたことであった。12月に最初の死者が出て、2番目の犠牲者は西郷所長であった。大正8年1月1日、朝から高熱を出していた西郷は医師が止めるのも聞かず、乗馬で収容所へ向った。年頭のあいさつとして敗戦の衝撃に沈んでいるドイツ兵を励まし、この新年が彼らにとって帰国の年となることを伝えようとしたのである。あるドイツ兵は、所長の死亡はこの日の午後4時であったと、敬意を込めた墓碑銘のように記している。スペイン風邪で倒れた者、その他の持病で亡くなった者計30名のドイツ兵の墓碑は、習志野陸軍墓地(現習志野霊園)にあり、今日でも毎年11月になると駐日ドイツ武官を迎えて慰霊祭が行われている。
[編集] 参考文献
- ドイツ兵士の見たニッポン(2001年、丸善ブックス) ISBN 4-621-06094-5
- 瀬戸武彦「青島から来た兵士たち」(2006年、同学社) ISBN 4-8102-0450-2