脇坂安治
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脇坂 安治(わきさか/わきざか やすはる、天文23年(1554年) - 寛永3年8月6日(1626年9月26日))は、安土桃山時代・江戸時代の大名。賤ヶ岳の七本槍の一人。官位は従五位下中務少輔。正室は西洞院時当の娘。
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[編集] 経歴
脇坂氏は近江国東浅井郡脇坂野に居住しその土地の名から脇坂と称した。はじめ浅井氏に仕えたが浅井氏滅亡後、15歳だった安治は木下藤吉郎に自ら頼み込んで、その家臣となった。天正11年(1583年)、近江国賤ヶ岳の戦いで福島正則や加藤清正らと共に活躍し、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられてその戦功により3000石を与えられた。ちなみに安治は、七本槍の中で最年長の人物である。
その後は加藤嘉明や九鬼嘉隆らと共に水軍衆の指揮官を務め、小田原征伐や朝鮮出兵などで活躍し、淡路国洲本に3万石を与えられた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与するつもりであったが、安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむなく西軍に与する。そして9月15日の本戦で小早川秀秋が裏切ったのに便乗して寝返り、大谷吉継隊を壊滅させた。戦前に通款を明らかにしていたため、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後徳川家康から所領を安堵された。
後に伊予国大洲に5万3000石の所領を与えられた。元和元年(1615年)に隠居し、息子の脇坂安元が家督を継いだ。
藩の設立当初は外様であったが、後に譜代となる。
徳川家光の治世のころ系図提出をもとめられたが他の大名はあれこれとりつくろった系譜を作成したが脇坂氏は安治の父安明から稿をおこしその冒頭に「北南それとはしらずこの糸のゆかりばかりの末の藤原」という和歌をしたためて提出したという。
[編集] 朝鮮における脇坂安治
文禄の役では1500人の動員を課せられ、当初は船手衆の1人として九州から釜山への海上輸送を担当するが後に陸戦兵力として投入された。文禄元年(1592年)6月に漢城近郊の龍仁を守備中に全羅道観察使の李洸などが率いる朝鮮軍約5万の大軍により攻撃を受けるが、機を制して夜襲を行い朝鮮軍約5万を潰走させた。
龍仁戦闘の直後の翌7月には李舜臣による水軍の活動を抑えるために藤堂高虎、九鬼嘉隆と共に急遽連合水軍として編成されるが、功を逸って単独で抜け駆けした脇坂安治は閑山島海戦で李舜臣に大敗した。
以降は豊臣秀吉の戦術転換命令によって水陸防御作戦を実施して李舜臣の侵攻を何度も阻んだ。
文禄2年(1593年)5月の第二次晋州城攻防戦では攻城軍に加わって陸上兵力(点呼員数900人)としても活躍している。
慶長の役では水軍配置となり1200人の動員を課せられ、慶長2年(1597年)7月に侵攻してきた元均率いる朝鮮水軍を逆襲により壊滅させた。
日本軍の侵攻作戦が始まると水軍として進撃するが、8月の南原城攻略作戦では陸上兵力として使用された。
全州会議に参加した後は再び水軍として引き続き朝鮮沿岸で活動した。
[編集] 関連
小説(短編) 司馬遼太郎:貂の皮「新潮文庫・馬上少年過ぐ(書籍情報:ISBN 4-10-115224-1)」に収録。
[編集] 外部リンク
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