花井卓蔵
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花井 卓蔵(はない たくぞう、慶応4年6月12日(1868年7月31日) - 昭和6年(1931年)12月3日)は、明治・大正に活躍した弁護士。戦後第3代検事総長・中央大学教授を勤めた花井忠の岳父。
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[編集] 苦学して代言人へ
慶応4年、備後国御調郡三原町(現広島県三原市)に誕生。士族・立原四郎右衛門の四男として生まれ、その後、分家により花井性を名乗った。幼年期から神童と謳われ10歳の時、進学のため上京するが、経済的に困窮し3年後に帰郷する。その後、小学校教員を勤めるの傍ら、長谷川桜南の門下生となり、高楠順次郎らと桜南舎で学ぶ。その3年間ほど小学校教員を務めながら、高楠とともに自由民権運動に参加するもこれが原因で教員を免職される。その後、再び上京し苦学しながら、明治21年に英吉利法律学校(現在の中央大学)を卒業。翌々年の明治23年12月には23歳で代言人試験に合格、当時の法曹界最年少者であった。
[編集] 刑事弁護の第一人者
足尾鉱毒事件では、弾圧された農民を弁護し、明治34年大逆事件で幸徳秋水を弁護するなどいわゆる人権派の弁護士として活躍。明治43年の星亨暗殺事件では新聞に「花井の弁論は奇警にして論理明快」と評価さた。その他、お東騒動、国民大会事件(日比谷焼き打ち事件)、シーメンス事件、米騒動、満鉄疑獄など多くの重大事件の弁護を担当する他、貧しい平民からの依頼も積極的に引き受けた。41年間にわたる弁護士活動では、1万件ほどの刑事事件を担当したといわれ、深く刑事学を修めた刑事弁護の第一人者とも、原嘉道と並び在野法曹の雄とも称された。大正15年の松島遊郭疑獄での被告弁護人を最後に第一線を退き、昭和4年7月に弁護士登録を抹消した。
[編集] 政治家として
明治31年から大正6年まで衆議院総選挙に計7回当選し、後に衆議院副議長、大正12年から貴族院議員に勅任され、「歴代政府の鬼門」として恐れられた。この間、明治39年に法律取調委員として刑法改正案を作成、その後、陸海軍軍法会議法、また当時としては画期的な陪審法案の成立などにも関わった。こうした功績を評価され、明治42年には帝国・官立大学以外の卒業生として初の法学博士号を文部大臣より授与された(第二次世界大戦前の博士号に関しては学位参照。)。
[編集] 実務界と法理論の間
苦学力行時代に目をかけてくれた人物に興行界の大物で帝都の名士を集めた「常陸山会」の幹部になる山田喜久太郎がおり浅草と吉原の表と裏を知り尽くした山田は後に至るも花井の力になったとされる(『鉄砲喜久一代』より)。また総会屋の大物となる久保祐三郎も交流をもった一人であり森川哲郎の『総会屋』では株主総会の運営を正常化するためにワン株屋と呼ばれる人間たちの面倒を見ていた花井は記者時代の久保に総会運営の研究を勧めたと記述している。大正中頃より社会の底辺の者たちも国家主義の看板を背負わなければ活動は難しく、在野の雄としての花井に対して何かを期待していたのかも知れない。
[編集] 逝去
晩年は、朝日新聞法律顧問を務める傍ら、法制審議会副総裁・同刑法調査委員長を務め、法曹実務よりも立法面に尽力していたが、昭和6年に東京・神田の自宅兼事務所の寝室にてガス中毒(就寝中に、ガス火鉢のガス管が何らかの理由で外れたため)により死去した。ちなみに、通夜・葬儀には多くの法曹関係者が駆けつけたため、朝鮮事件等いくつかの裁判の公判が延期となるなど法曹界での影響力がうかがえる。なお、訃報を報じる朝日新聞のコラム天声人語において、花井の人となり次のように簡潔明瞭に記されている。
『…錆のある音声と、華やかな弁舌と、辛辣な立論と、計時弁論の社会的地位を定めた感あり。毎議会では政府の鬼門的存在を示して、波乱を巻き、然れども怒って敵を作らず、撃ってこれを愛撫する処世の妙は、範とするに足る。「何人も見る権利あり今日の月」の名吟を残す一方、「法に涙あり」の主張が、しばしば法廷に時ならぬ涙の雨を降らせた…』(昭和6年12月5日付東京朝日新聞朝刊 ※著作権消滅)
[編集] 雄弁家として
花井は法廷や議会での活動から雄弁家としても知られ、その雄弁術は「花井式弁論」と称された。母校中央大学で教壇に立つ傍ら弁論部を組織し、後進の指導にあたった。これを記念しかつて地元三原市では、昭和26年から昭和44年にかけ広島県下や三原市近辺の中学生を対象にした「花井杯弁論大会」が催され、母校中央大学では現在も大学生を対象にした「花井杯弁論大会」が開催されている。
[編集] 関連項目
- 星一
- 創立者花井卓蔵の紹介:花井が1901年に中央大学にて創設した弁論部のHP]]