米騒動
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米騒動(こめそうどう)とは、近世から近代にかけての日本における米価格急騰にともなう暴動事件であり、特に1918年の富山県を中心にして全国規模の民衆暴動へ発展した事件を指す。越中女房一揆ともいわれる。
江戸時代の享保の大飢饉の頃から同様の騒動は起こり、明治にも佐渡相川や長野県飯田などで起こっている。1890年、1897年にも北陸地方でもおこっている。
[編集] 経緯
1914年からはじまった第一次世界大戦中、東南アジアを支配するフランスやイギリスが米の輸出を制限しており、大戦景気で米価は高騰した。また、その大戦景気でいわゆる成金になった者たちが有り余った金で米相場に投機したりして、米価はさらに高騰した。これが心理的に微妙な影響を与えた。1918年7月12日、寺内正毅首相がロシア革命に対する干渉出兵であるシベリア出兵を宣言した。この宣言をきっかけに需要増大を見込んだ商社や米問屋らがさらに米の買占め、売り惜しみに走ったため米価が急騰する。大戦勃発時には一升13銭だった米価が39銭程にまで急騰した。その様な中で7月23日、富山県下新川郡魚津町(現在の魚津市本町)の住民らが、米問屋が港から県外に米を運び出すところを目撃する。すぐさま、米の搬出を阻止する騒動に発展した。この事件が越中女一揆の見出しで新聞に掲載された。
また8月4日午後7時頃、同県中新川郡水橋町(現在の富山市水橋)で漁村の主婦(お母)らが米商人に米を輸出しないよう陳情しに駆け込み、騒ぎとなった。警察の介入でリーダー格の水上ノブが連行されたことによって、騒ぎは2日後には治まった。地元各紙は挙ってこの騒動を批判したが、高岡新報の主筆・井上江花はこの騒動について「社会経済組織の欠陥」と書きたてた。しかし、その文章が県当局の目に止まり、「治安を乱す」として発行中止となってしまった。だが騒動は次の日には富山県中に広まった。
発行を止められた井上はそれでも電信で全国にこの様子を伝え、それが各紙の新聞に載ると、それに呼応した人々が次々と暴動を起こし、全国(ただし、北海道・青森・秋田・山形ではなかったといわれている)で2ヶ月間に米問屋の打ちこわしなどが多発した。原因としては明日食べるものにも困るほどの貧困、その一方で戦争成金が儲けていて格差が拡大し、その事に対する民衆の不満が爆発、その怒りが形となって表れたものである。この事件で鈴木商店も焼き討ちの目にあった。寺内は事件の原因が全く分からず、シベリア出兵を進めている中で暴動が起こったことに激怒し、全国122ヶ所に延べ10万を超える軍隊を鎮圧に向かわせ、逮捕者は2万5000人以上に及んだ。また8月15日付の新聞には騒動を報じている文章を、「事実そのものが治安の妨害」として塗り潰すなど言論弾圧を行った。8月18日の山口県厚狭郡宇部村(現在の宇部市)の暴動では、軍隊が発砲したため(午後8時10分)、死者14人、重軽傷16人も出た。
最終的には全国768ヶ所で起こり、約100万人が騒動に加わったと見ている。寺内正毅首相は事件の責任を取って9月21日内閣総辞職した。
[編集] 影響
寺内内閣が倒れ、「平民宰相」とよばれた原敬を首班とする本格的政党内閣が組閣された。
この年の全国中学校野球選手権大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)や徳島の阿波踊りが中止となった。
この民衆運動はやがて大正デモクラシーへと発展していった。