藤本義一
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藤本義一
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藤本 義一(ふじもと ぎいち、1933年1月26日 - )は、作家・放送作家。、大阪府堺市出身。本名の読みはふじもと よしかず(漢字同じ)。司馬遼太郎からは「ギッちゃん」と呼ばれていた。
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[編集] 人物
私立・浪速高等学校、大阪府立大学経済学部卒業。大学在学中の1957年に執筆した『つばくろの歌』というラジオドラマ作品で同年度の芸術祭文部大臣賞を獲得。「東の井上ひさし、西の藤本義一」と呼ばれるほど、早くから、その才能は高く評価されていた。
その後、大映にて脚本家として鬼才:川島雄三監督に師事する。その際、『悪名』シリーズ等の脚本を手がけ、頭角を現していく。やがて、川島が活動拠点を東京に移す時期に川島の下を離れるが、今も「僕の師匠は川島雄三」「監督は僕にとって母港みたいな存在」と公言し、尊敬し称賛している。が、逆に大映で当時スターであった、俳優K氏とT氏を「それぞれ自分の見せ場しか頭にない」とイニシャルで皮肉っている。
1974年には上方落語家の半生を描いた『鬼の詩』で直木賞受賞。以後文芸作品からエッセイ・社会評論などの著作を多数発表している。サラリーマン経験は無いものの、「いかにサラリーマンはあるべきか?」という問いに独自の意見がある。また近世上方文学の研究者で、特に井原西鶴を研究している。
藤本の知名度を高めたのは『11PM』(日本テレビ放送網・讀賣テレビ放送共同製作)の大阪発の番組のキャスターで、1965年の放送開始から1990年の終了までの25年に渡って担当する皆勤だった。余談ではあるが、同じ『11PM』のキャスターだった大橋巨泉から、「義一、お前(ギャラ)いくら貰っているんだ?」と尋ねられ、自身が大橋巨泉の1/7程しか貰っていなかった事を知った。しかし、「自分は作家である」というスタンスから、ギャラの値上げは一切口にしなかったという。
それ以後も関西を中心にテレビコメンテーターや演芸評論家・審査員として活動し続けている他、阪神・淡路大震災被災遺児のための福祉施設「浜風の家」を運営している。阪神・淡路大震災で報道ヘリコプターのために「救援を求める声がかき消された」として救助活動に支障が出たことを痛烈に批判し、過剰なマスコミ報道に警鐘をならした。
[編集] その他・エピソード
- 敬語を使うことはあまりない。
- 東京を意識し、大阪と東京の比較を発想の根幹としている。松尾貴史に物真似されている。
- 普段の口癖は「ぐるり」(周囲、という意味の近畿地方の方言)。
- 夫人は、関西で活動するタレント・藤本統紀子(ふじもと・ときこ)。「宇治森徳」社のお茶のコマーシャルで知られた。
- 一風変わった子育て論を持っており、男女の体の違いを説明するのに前述された統紀子夫人とともに子供の前で全裸になったことがある。
- 日本放送作家協会関西支部長であり、プロ作家を育成する心斎橋大学総長でもある。
- その知名度から演芸審査の場に招かれて出演することも多い。しかし、評論家・審査員としては理解不足ともとれる的外れな発言によって、演者やその演出を侮蔑する例が後を絶たなかったため、松本人志や明石家さんま・島田紳助など、その後のお笑い界を代表するようになった人物からは批判されている。
- 上田秋成を書こうとした矢先、井伏鱒二氏から執筆を止めるよう説得された。これは、上田秋成を書いた人は非業の死を遂げると共に、本居宣長の力によってそちら側から資料が書かれている故に仕事に行き詰まる事からという理由であった。しかし、これが井原西鶴の研究のきっかけとなった。
- 浪速高校ではボクシング部に所属。その後輩に赤井英和がいる。
[編集] 出演しているテレビ・ラジオ番組
- 藤本義一"聞きすて御免" (TBSラジオ、但しネット局向け裏送り)
- THE・サンデー (日本テレビ)
- 知るを楽しむ・お金で買えない商人魂(NHK教育テレビジョン 講師)