西崎幸広
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西崎 幸広(にしざき ゆきひろ、1964年4月13日 - )は、日本ハムファイターズ、西武ライオンズで活躍したプロ野球選手。ポジションは投手。現在は野球解説者。滋賀県大津市出身。
いわゆる「トレンディ・エース」の代表格。腰痛に悩まされ故障がちであったため「ガラスのエース」などとも呼ばれた。日本ハム入団時の背番号は21。これはチームの大先輩である土橋正幸や高橋直樹がつけていた番号であり、球団の西崎に対する期待がうかがえる。
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[編集] 来歴・人物
瀬田工業高校では1980年、第62回全国高校野球選手権大会に出場し、愛知工業大学へ進んだ。ここで当時の愛知大学リーグの1試合最多奪三振の記録を作り、1986年の明治神宮野球大会優勝に貢献。同年11月のプロ野球ドラフト会議で日本ハムに1位指名され入団した。そのドラフトも当初の日本ハム1位指名は近藤真一(亨栄高校)であったがクジで負け、その後のいわゆる「外れ1位」であった。
1年目の1987年は同じくトレンディエースと呼ばれた近鉄バファローズ・阿波野秀幸投手と新人王を争う。防御率、勝ち数はほぼ同じで負け数は西崎の方が5つも少ないくらいだったが、奪三振王をとった阿波野に軍配が上がり惜しくも敗れた。しかし通年なら新人王に値する成績を残したことが評価され、パ・リーグ会長特別賞を受賞する。
1988年には最多勝を獲得し、エースの座を不動のものにした。若くしてその実績と、その華麗なフォームから投げる速球。それに増して甘いマスクという点で女性を中心に圧倒的な支持を受け、前述の通り「トレンディーエース」として君臨し、球団の公式グッズとして「近づくと声の出るポスター」が発売されたり、雑誌「MEN'S NONNO」の表紙を飾るなど、女性におけるプロ野球選手という位置付けを大幅に変えた球界として多大なる貢献者といえる。
特にこの頃、西崎、阿波野に渡辺久信(西武)・星野伸之(オリックス)と合わせ、「パ・リーグのトレンディ4人組」ともてはやされたほどで、チームの壁を超え、パ・リーグ全体の注目度アップに貢献した1人、ともいえるだろう。しかし1997年オフ、上田利治監督と対立しトレードを直訴。石井丈裕、奈良原浩両選手との交換トレードで西武に移籍。
移籍1年目の1998年はわき腹痛などの故障で満足な働きが出来なかったが翌1999年に抑えに転向、20セーブを挙げた。松坂大輔投手のプロ初勝利の際もリリーフし、「ここで逆転されたら国民的悪者になってしまうところだった」との名言を発するなど、同投手にも兄貴分として慕われていた事もよく知られている。2000年も先発に復帰して6勝1敗、防御率も3点台と好成績を残したが、この頃から再び故障がちになり、2001年限りで引退した。
先述の「トレンディエース」という称号が示すとおり、従来の野球選手像を覆すアイドル的存在として爆発的な人気を誇った。しかしその反面本人は野球選手は泥や汗にまみれて懸命にプレーするものだという一般的な理想像を失っておらず、トレンディエースと呼ばれることはあまり快く思っていなかったらしい。
2002年~2004年はNHK衛星放送、2005年からはTBC東北放送、HBCラジオ、STVラジオ、スカイ・A、テレ玉などのプロ野球中継で野球解説者を務める。歯切れが良く聞きやすい解説に定評がある。
[編集] 略歴
- 身長・体重:181cm、75kg
- 投打:右/右
- 血液型:B
- 球歴・入団経緯:瀬田工業高-愛工大-日本ハムファイターズ(1987年~1997年)-西武ライオンズ(1998年~2001年)
- ドラフト年度・順位:1986年1位
[編集] 背番号
- 21(1987年~2001年)
[編集] タイトル
- 1回 1988年
- 1回 1988年
- 2回 1988年、1996年
- 会長特別賞(優秀新人賞)
- 1回 1987年
- 7回 1988年~1990年、1993年~1996年
[編集] 記録
- 1回 1995年7月5日対西武戦