調所広郷
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調所 広郷(ずしょ ひろさと、1776年3月24日(安永5年2月5日) - 1849年1月13日(嘉永元年12月19日))は、江戸時代後期の薩摩藩の家老。名は広郷のほか清八、友治、笑悦、笑左衛門。
[編集] 生涯
城下士川崎主右衛門基明(兼高)の息子として生まれ、1788年に城下士調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、1798年に江戸へ出府し、隠居していた前薩摩藩主島津重豪にその才能を見出されて登用される。薩摩藩主島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任、藩が琉球や中国と行っていた密貿易にも携わる。1833年には家老に出世し、藩の財政改革に取り組んだ。
当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は、行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い、だが、実際には1872年の廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。そして、大島・徳之島などから取れる砂糖を専売制、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、1840年には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
やがて藩主斉興の後継者を巡る長男の島津斉彬と三男の島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつて重豪に似て西洋被れである斉彬が藩主になる事で、再び財政が悪化する事を懸念しての事であると言われている。
斉彬は幕府老中阿部正弘らと結託し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。1848年、調所が江戸に出仕した際、阿部老中に密貿易の件を糾問される。同年12月、江戸桜田(芝とも)藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。
死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。墓所は鹿児島市内の福昌寺跡。明治時代の官僚で男爵になった調所広丈は末子(三男)で、調所本家を継いだ。この本家は薩摩藩士調所家としての本家であり、広郷自身が調所分家出身の為、調所広郷家、つまり調所・家老家本家とは別である。
[編集] 評価
明治維新の革命は、薩摩の軍事力によって実現されたが、薩摩藩が明治維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し羽振りが良かったのは、一世代前に500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建させた調所広郷がいたからである。 薩摩藩の500万両の借金は(当時、薩摩藩の年収は12~14万両、年間利息だけで年80万両を越える)、事実は「踏み倒した」のではなく、無利子250年払いにさせて1872年までの35年間は一応返済されている(但しそれ以降は廃藩置県の為に返済されなかった)。また、調所広郷のお陰で薩摩藩の財政改革や殖産や農業改革にも成功し、財政の面だけで見ると薩摩藩の救世主である事は間違いない。
しかし、砂糖の専売では百姓から砂糖を安く買い上げた上に税を厳しく取り立てている上、借金の返済でも証文を燃やしたり商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させた為、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べて、その評価は清風と同じく財政を再建させたとはいえ、その一方で多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。但し、苗代川地区では例外で調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くした事から、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の供養塔が建てられて密かに祀られ続けていたという。
また、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。その後、斉彬派の西郷隆盛や大久保利通が明治維新の立て役者となった為、調所家は徹底的な迫害を受け一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉彬の父斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は島津久光の両親であり弾劾出来なかった為、一層調所家への風当たりが強くなったものと考えられる。彼の財政改革が後の斉彬や西郷隆盛らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現されたと評価される用になったのは戦後のことである。