島津斉彬
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島津 斉彬(しまづ なりあきら、文化6年3月14日(1809年4月28日) - 安政5年7月16日(1858年8月24日))江戸時代後期、幕末の大名である。薩摩藩11代藩主(在任:嘉永4年(1851年) - 安政5年(1858年))。島津氏28代当主。父は島津斉興で長男、母は池田治道の娘の周子。正室は徳川斉敦の娘・恒姫。子に暐姫(島津忠義室)、典姫(島津珍彦室)、寧姫(島津忠義室)。官位は従四位上左近衛権中将薩摩守、没後 贈正一位。神号は照国大明神。
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[編集] 経歴
[編集] 生い立ちとお由羅騒動
江戸に生まれる。母の周子は「賢夫人」として知られた女性で、この時代には珍しく、斉彬はじめ周子出生の3人の子供は乳母をつけず周子自身の手で養育された。また、曽祖父である9代藩主・島津重豪の影響を受け、洋学に興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖とうつったことが、藩を二分する抗争の原因の1つになったとされる。
斉彬が藩主に就任となれば、重豪のように公金を湯水の如く費やし藩財政の困窮に一層の拍車をかけかねないと、特に国元の薩摩で心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲らなかった。そして、家老・調所広郷(笑左衛門)や斉興の側室お由羅らは、お由羅の子で斉彬の異母弟にあたる久光の擁立を画策した。斉彬派側近は久光派側近を暗殺しようと計画したが情報が漏洩する。首謀者は切腹、また連座した約50名が切腹・遠島・謹慎に処せられた。斉彬派の4人が必死で脱藩し、重豪の子で福岡藩主・黒田長溥に援助を求めた。長溥の仲介で、斉彬と近しい幕府老中・阿部正弘、宇和島藩主伊達宗城、福井藩主松平春嶽(慶永)らが事態収拾に努めた。こうして嘉永4年(1851年)2月に斉興が隠居し、斉彬が藩主に就任した。この一連のお家騒動はお由羅騒動(高崎崩れ)と呼ばれている。
[編集] 藩主時代
藩主に就任するや、藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などの集成館事業を興した。土佐藩の漂流民でアメリカから帰国した中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、安政元年(1854年)、西洋式帆船・伊呂波丸を完成させ、西洋式軍艦・昇平丸を建造し徳川幕府に献上している。日の丸を日本船章にすべきだと献策し、同年に幕府に正規に採用された。以後、日の丸は日本の国旗となってゆく。また、帆船用帆布を自製するために木綿紡績事業を興した。また、下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を登用して朝廷での政局に関わる。
斉彬は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂とも交流をもち、幕末の四賢侯と称された。彼らは幕政にも積極的に口を挟み、老中・阿部正弘に幕政改革(安政の幕政改革)を訴えた。特に斉彬はアメリカのマシュー・ペリー艦隊以来の難局を打開するには公武合体・武備開国をおいてほかにないと主張した。
阿部正弘の死後、安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼と、将軍世継問題で真っ向から対立した。13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯、前水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜(徳川慶喜)を推し、天璋院を養女として家定正室とする。一方、井伊は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を推した。井伊は大老の地位を利用し強権を発動し、反対派を弾圧する安政の大獄を開始。結果、慶福が14代将軍・徳川家茂となることになった。斉彬はこれに対し藩兵5千人を率いて抗議のため上洛することを計画した。その年の7月16日出兵のための練兵の最中に発病して死去、享年50。斉彬の死後、彼の遺言により久光の長男・忠義が次の藩主となった(そのあまりに急な死は、嫡子がいずれも夭逝していることとあわせ、斉興や久光又はその支持者の陰謀であるとの噂もあった)。
また、嘉永6年(1853年)11月に既に大石寺に帰依していた、島津の血を引く南部八戸藩主南部信順の強い勧めにより、養女である天璋院とともに、現在の日蓮正宗総本山大石寺に帰依した。
法名:順聖院殿英徳良雄大居士。墓所:鹿児島県鹿児島市池之上町の玉龍山福昌寺跡。鹿児島市に鎮座する照国神社の祭神でもある。
[編集] 遺産
斉彬により着手された殖産興業の一部は現在・尚古集成館(鹿児島県鹿児島市)に展示されている。 特に、ガラス製品製造のうち、ガラス工芸品は薩摩の紅ビードロとして珍重され、大名間の贈り物としても持ちいられた品。維新後、その技術は断絶。当時のものは希少な骨董として高い価値を持つ。近来になり復元・復興に成功し、現在薩摩切子の名で生産されている。
[編集] 雑学
大名身分をもつ者の中では、最も早く写真に撮影された人物であると言われている。また撮影技術自体にも興味をもち、城の写真を自ら撮影するなど、好奇心に富んだ人物であったと言われている。斉彬が撮影した写真は、当時の技術では上出来であったと伝えられている。
[編集] 文学に見る人物像
[編集] 官職位階履歴
- 文化9年8月15日(1812年9月20日)、藩主後継者となる。
- 文政4年3月4日(1821年4月6日)、元服。又三郎忠方と名乗る。
- 文政7年11月21日(1825年1月9日)、将軍徳川家斉の名一字を賜り、斉彬と改める。従四位下侍従兼兵庫頭に叙任。
- 天保3年5月18日(1832年6月16日)、豊後守に遷任。侍従如元。
- 天保5年12月16日(1835年1月14日)、左近衛権少将に転任。豊後守如元。
- 天保14年2月9日(1843年3月9日)、修理大夫に転任。左近衛権少将如元。
- 嘉永4年2月2日(1851年3月4日)、藩主となる。2月3日(3月5日)、薩摩守に遷任。左近衛権少将如元。
- 嘉永5年12月16日(1853年1月25日)、従四位上に昇叙し、左近衛権中将に転任。薩摩守如元。
- 文久2年11月12日(1863年1月1日)、贈従三位権中納言
- 文久3年5月12日(1863年6月27日)、照国大明神の神号を贈られる。
- 明治2年11月22日(1869年12月24日)、追贈従一位
- 明治34年(1901年)5月16日、追贈正一位
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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